三月二十五日 まぼろし


わたしはこの一ヶ月何をしてゐた
この生活から脱け出す方法を考へてゐた
いくつかのビジネスプランを温めてゐた
しかし今や少しばかり落ち着いて眺められるやうになった
しあはせになるための算段を立ててゐるときは
ある程度夢中であった
ある種の熱狂があった
ただ今おもふにそれは不幸な現状を覆ひ隠すための
風呂敷づつみでしかなかった
幸福の幻に酔ってゐるあひだわたしは
まぎれもなくある程度はしあはせであった
ふしあはせな者がしあはせを求める
未来のしあはせを空想して現在の苦しみをやはらげる
しあはせが想像されるものであるのと同様
不幸も求められ作り上げられた幻の像なのではないか
もちろんある程度はの話だが
かわいた者は水を求める
これは無條件にさうだらうか
習慣でさうなってゐるだけではないか
わたしは問ふ
わたしは不幸なのだらうか
時間が現状にわたしを慣らし
思考を組み替へて適応させ
はじめの痛苦を幻にするなら
わたしが現況から脱出し
しあはせになるといふ希望も
そのうちしぼんで消えることになるだらう
のどの渇きは苦しいが
これもわたしが作り出した幻に過ぎないと言へるだらうか
たとへば身体と精神と段階を設けて区別するのは
この問題に取り組む道ではなく
処理する方法であるから
採用するのは適切でない
のどの渇きも幻とするか
違ふ考へを探すか
ともかく答へに飛びつくべきではないだらう

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