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湿原行

作品といふのはおしなべて 壊されるべきものだ それが作られたものであるといふただ一点が 破壊の十全な理由となる わたしは作品が嫌いだ 特によくできた逸品が嫌いだ 傑作といふのは それがただ苦心を重ねて成し遂げられたといふ一点で 唾棄の完全な理由となる 人のゐない湿原に来て きれいなベンチに腰掛ける 笹の葉が風に吹かれて さわさわと音を立てる どうしてわたしはここに来たのか かなしい考へを巡らせる 街には人間がたくさんゐる まるで関係のない生き物に囲まれて ことさらに係累を明示しなければならない しかしほんたうのところ 誰も相手になってくれないので 表と裏の乖離になんとなく疲れて ひとときの憩ひを求めたのかもしれない そんなふうに理由をつけてみては わだかまる不安を覆ひ隠さうとする 高層湿原はいい 大樹が葉を広げて庇護したがることも 草の藪が息を詰まらせることもない 清水を含んで花よりも麗しい水苔の上を 冷えた空気が通り抜けてゆく 老齢期に入ったこの湿原には コナシの低木がぽつんぽつんと立ってゐる 白い花はもう残ってゐなかったが ここは世の理の外かと錯覚させるやうな 信じられない光景だったに違いない   もっとも花が咲いてゐると知ってゐたら わたしは来なかったであらうけれども かはりに今はツツジが控へ目に 朱華(はねず)の花をつけてゐる 高原唯一の色どりは 数日後にはなくなってゐるだらう その頃にもう一度来てみようか 灰色の景色が慾しくて訪れる目を迎へるのは 灰に彩られた面白くもない風景だらうけど

Une nostalgie simple

故郷に帰りたいと云ふ友がゐたら わたしは帰ることを勧めるだらう 友はいやと答へる 諸事情あって帰れないのだ たとへば経済的な理由なら わたしはいつか解決されることを願ふだらう 諸問題が解消した暁には 友は喜んで帰途につくはずだから 世の中では単純な郷愁であるが ここに取り上げたいものの根源は 帰りたいといふ明快な希望だけではない 望郷といふのは一つの感情ではない 帰りたいと同時にまた 帰りたくない 心から帰りたくない あらためてどちらなのか 帰りたいのかたくないのか問ふてみると やはり帰りたいのだと云ふ しかるに帰れないのは 世俗的な事情の所為ではなく 心の底から帰らうとしてゐないからで つまり本心では帰りたくないとおもってゐるからだ さうして厄介なことに かうした願ひの錯綜が全体としては この人に見られる現象の欠くべからざる姿で 家路につく道程の一部であるといふ事情も 認められねばならないのだらう ―――あのすみませんわたくし帰りたいのですけど ―――はいどうぞこちらです足下お気を付けください といふやうにはなぜか運ばない もし運ぶといふ者があるなら 運悪く詐欺にあって騙されてゐるに違ひない 彼は帰ることができるかもしれないが そこが彼の本当の家かどうか 知るものは一人もゐない 実際本当にさうかもしれないので 疑ふ仕方を教へられなかった良き人は 心地よさを唯一の基準としながら 心安く憩ひ続けるのであらう それは一つのあり方であって 否定したり否認したりすべきものではない 地獄といふ場所は 天国の存在を前提としてゐて だからつまりある意味 一種の天獄みたいなものなのだから 騙された者は騙されることによってすでに救はれてゐる 彼はたしかに帰路にある 途方もなく遠い場所で留まってゐるのかもしれないが けして間違ってゐるわけではなく 正しい途の上に置かれてある 矮小な人間はその矮小さ故に偉大とされる そしてもちろん偉大な人間もまた その偉大さ故に偉大とされるのである

白い霧

わたしは誰であったのか 街は白い霧に包まれて 木々の緑葉はしづくをたたへ 人は一人机の前に呆然として うつろなまなこを窓外に投げる もはやこの生でなすべきことはなく 他に叶へたい望みを抱くわけでもなく なすことに興味の一切を失った人は たんぼの稲穂を数へる以外の 何をして過ごしたらもっともらしいのだらう わたしは誰であったのか さう今やうつし世におもひはなく おもひ出されるのは かつてのわたしであり かつてのひとであり かつてのそれであり わたしの元来たところであり 今はかうして帰れないでゐるが 心の隅にきっと情景が残ってゐるのではないかと 不思議に確信するそんな ふるさとのこと わたしは誰であったのか 阿呆になって 他人の目を欺くことはできても 自らの冷めた視線はそらされなかった 我が目をごまかすほどの演技力には 自分は恵まれなかったらしい 面白いとおもはれることは すでにやりつくし 心残りはない なのに生きてあるといふのは 断頭台に頭を突っ込んだまま とうに覚悟はできてゐるのに 細い首を落とすはずの刃が 一向に落ちてこないで 図らずもずっと待たされてゐる そんな罪人の気持ちに よく似てゐる なかなか落ちてこないものだから 体は縛り付けられて動かないものの 自由な頭の内側で 妄想ばかりが駆け巡る その中で ふとひらめいた考へを追ひかける 少しだけ興奮してゐるのは そのおもひに何か真実らしいものが含まれてゐるやうな そんな気をわたしに起こさせたから もしかするとこの生も捨てたものではないのではないかと いやなかったかと 絶望には何かあかるい部分が隠れてゐたのではないかと そしてその光は わたしの心の奥にあり かつてわたしを戸惑はせ 結果としてこの生をあきらめさせた あの場所から漏れ出た一条ではないかと このおもひを辿って行けば きっと近くまでは至り着くのではないかと 年甲斐もなくわたしは興奮したのだ わたしは道を踏み違へたのだらうか 処刑台の上で気が付いたのは あまりにも遅すぎたと言ふべきだらうか もっと早くにさとってゐれば よりよい生が送れたのではなかったか さあそれはわたしには判断のつきかねる問題だ さうかもしれないしさ