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4月, 2017の投稿を表示しています

桜がひらけば春が来る かへるがないて つばめ舞ふ この地の人は笑顔になる 花見にひきずりだされて 幽霊のやうにふらつく 天下第一のさくらばな このこころにはうつらない しゃがんだ人が手招きする スミレが咲いてゐる 薄紫の小さな花弁は 端が踏まれて折れてゐる 誰かがしゃべる 桜がそそぐ 痛みを覚えて そっと胸をおさへる 男の子が人波を すり抜けて行く 振り返って呼ぶと 親はカメラを向ける 花の向かうに 青い空 あかるげな声が満ちる 木漏れ日の下 失はれた過去を取り戻して 記憶の水面に花が浮く 悲しさうな目をして 見つめる人がゐる 桜がひらけば春が来る かへるがないて つばめ舞ふ スミレが咲いて この地の人は笑顔になる

すこやかなたんぽぽ

すこやかなたんぽぽ むらさきいろの おおきなすみれと ほそいやまぢのいりぐちを すこしだけ はなやかにしている いえにかえってしらべたら すみれは外来種で アメリカなんとかという 名前がついていた たぶんたんぽぽも 最近いこくよりはいったものだろう すこやかなたんぽぽと あまりかれんとはいえない おおきなすみれが いりぐちふきんにかたまって 群落を形成している 黄色と紫色があでやかで 高原の日が差し込むと じつに 鮮明だ はっきりしすぎて ああこれはかつて宣教師が 教化のために準備した 布石の一環なのだと 疑われた なんだろう なんだろうか このいたみは みちのとちゅうにたちどまり からだをかたむけて こだちのあいだをみつめる なんだろう なんなのだろうか これは とりのこえがきこえる 何種類いるのだろう たくさんだ 三種類だ きみょうだ じつに きみょうだ 我々はだまされたのか そうでないなら これはなんなのだ どういったじたいなのだ 釈明を要求する と叫んでも 木々の間に吸い込まれるだけで 小鳥たちは一瞬黙ることすらせず 変わらず歌う 厳しい目でにらんでも いっこう手ごたえがないので おもいきって力をぬいて やさしい目で森の奥を見つめてみる するとどうだろう 一羽のきつつきが降りてきて うやうやしくおじぎをした さきほどから気になっていたのだが こわくて近寄れなかったらしい おともだちになりましょう と提案したら いいですよと言って 肩の上にのってきた けれど 一つだけ条件があります きつつきはささやいた カエサルのガリア戦記をください いいよと答えた 今度持ってきてあげる でもめづらしいね そんなものを欲しがるなんて 日本のきつつき界でいま 一番あついのがカエサルなのです 来た見た勝ったと言われても うまく返せないで困っているのです 君は流行に乗り遅れたきつつきなのだね なら友達のよしみで忠告してあげるけど もう遅いんじゃないかな 今さら読んでも君が読み終わるころには モードは移り変わっているとおもうよ それもそうですね けどそうすると吾輩は何を読むべきでしょうか

よいこのみなさんへ

写真をとった ぼやけていたので レンズを拭いてまたとった それでもまだぼやけていたので ぼやけているのは自分の目だとわかった ハンカチを出してこすったら 少しだけはっきりした気がする 昨日までどのくらい見えていたか はっきりと思い出せないから どういう気にもなれるのだけど よいこのみなさんへ あぶないからのぼらないでね しかし登るのはよりよく見ようとするからだ 現状に満足しないでよりよいものを求めるからだ はじめから登ろうとしない子は 想像力が足りないか勇気がないか どちらにせよあまりよい子とは言えない 登って落ちないのがよい子だろう よいこのみなさんへ あぶないからおちないでね 晴れた休日の昼前の 歩道を行く人影の 信じがたいくらい当然で どうにもならないくらい 絶望的なこと 別に聞きたいわけではないが 何年前からその顔をつけて そうやって手を振って歩いているの はづかしいと思わないのは 本当に知らないからかあるいは 知っているのに知らないふりをしているからか どちらにしてもつまるところは どうしようもないわけだが 知っても詮無きことはあるし 知らせてもどうにもならぬことはある 親切心から思っていることを 空気の読めない者が叫ぶ 一瞬ひやりとするが 誰かが取り繕って 何事もなく元通り 二千年前のみなさんと 二千年後のみなさんへ ごきげんよう どうですか 今日もまた よく晴れていますよ

やまぶきの便り

やまぶきは日に日に咲きぬ うるはしと我(あ)が思(も)ふ君はしくしく思ほゆ (万葉集 巻17より) 越の国で臥せっている家持に対して贈られた、大伴池主の返歌です。 「山吹が日に日に咲いていますよ、大兄のことがしきりに思われますことよ」 こちらではまだ開いていないのですが、東京ではもう咲き始めたということで、いよいよ明るい季節の来るのを感じています。部屋の気温も二十度近くなる日が多くなってきました。今日は朝から雨がしくしく降っています。昼からやむとの予報でしたが、はて。 うるはしと我が思ふ先哲の、洞窟の比喩のことが今朝ふと思い出されました。この物語を正しく導く解釈学があればよいのかも知れません。固定された理解に常に再考の余地を与え、読み手の状態と共に導かれる意味もその都度また変化していくことを受容する、そんなおとぎ話があるとしたら、この寓話もその一つでしょう。解釈し直すということは、対話の中で生まれるものではありますが、作品の側からというよりは、読み手の側からの働きが大きいと思います。作品は鏡のようで、覗き込む者はそこに自分の顔を見つけます。鏡はその痴愚を指摘してくれるほど親切な道具ではありません。 ただ、寓話は寓話であって、つまり寓話に過ぎないのであって、だからこそ、そこに凝縮して語られた内実に関しては、その話を読んでよく研究しただけでは達しえないものです。それは寓話の外で、各人が行わなければなりません。行ってみてはじめて、その物語で語られていたことの実際に、気が付くというものです。自分の足で歩いてみてはじめて、その地図が何を指示していたかが分かる、そういう種類の地図なのであり、何に対しても開かれた暗号なのです。解こうと努力する試みは不毛に終わるでしょう、諦めて一周して戻ってきたら解かれていた、ということはあるかもしれません。しかし所詮その開示もまた限定的なものに留まるのであり、物語の大きさという尺度があるならば、それは様々な段階の開明を包含する度合となるでしょう。 大きな物語。どこまで大きいか、まだ果ての見えない物語。それを解釈するということは、それを書き直すということ、そんな物語。 やまぶきは日に日に咲きぬ うるはしと我が思ふ事はしくしく思ほゆ  そんな四月のはじめの日。予報通り、日がさして来ました。

春に降る雪

ブログのテンプレートを変更してみました。 以前使っていたのはどこかのサイトでダウンロードしたもので、なかなか気に入っていたのですが、googleで用意された型式ではなかったため、フォントやサイズをこちらで指定してやる必要があり、手間でしたし、スマートフォンで閲覧すると別の様式に強制変更されてしまう等、不具合が多々ありました。 今回新しいテンプレートが配信されたのを機に、変にいじくりまわさず、一般的な型に乗っかることにしました。少しでも読みやすくなったのであれば幸いです。 連絡フォームも追加してみました。メールアドレスとコメントを記入して送信ボタンを押して頂きますと、直接私のメールアドレスまでその内容が届く、という仕組みです。感想などあればどうぞ気楽にご利用ください。 このブログを始めて二年以上経ちますが、いまだにコメントを受け取ったことがありません。一件もないのです。文章がつまらないからに違いないのですが、悲しいですね。 昨日はずっと雪が降り続けていましたが、ここでは四月の雪はすぐにとけるみたいです。とは言えまだ田んぼは真っ白で、窓際で書いておりますと、まぶしくて目が細くなります。道半ばにして前途の行方も知られず、ただ奇妙な確信めいたものだけがしまい込んだ奥の院にくすぶり続けているようです。もしかしたらそれこそが消さねばならない火なのかも分かりませんが、今はただじっと静かにしています。待っているのでしょうか。いやそれも分かりません。どこかへと向かう心はショックを受けて麻痺しています。さあ、何が始まるのでしょうか。始まらないのでしょうか。つまらない分別は、まだ鍋の中に残って、捨てられないでいます。捨ててしまったら食べるものがなくなってしまうではありませんか。そうしたら、生きて行けないでしょう。ええ、でも、私の作りたい料理は、それではないような。空の鍋を炊いて、死んでみるのも、人間にはよくあることかもしれません。 あらゆる認識は、一度捨てられなければなりません。それが真か偽か、正か不正か、合致か不一致か、論争する大きな声を聞きながら、その場を静かに離れましょう。どうしても、です。たとえこの上ない真実だとしても、必ず手放さなければなりません。これを歴史において方法的に遂行すること、これが、春に降る雪の、とけてなくなることであります。