鳩とモーツアルト
W・A・モーツアルトの楽曲について書くことはこれまであまりなかった。『東都百景』のなかでも名指しで登場はしていない。 しかし振り返ってみるに、控えめに言っても、私の人生を狂わせ、道を踏み外させた一因は、彼の作品にあるようにおもう。 家にたった一枚だけあった廉価のモーツアルトのCDを聞いて以来、私の青春は彼の音楽と共にあった。あるときは冷たい涙で枕を濡らし、あるときは鼻をすすりながら奔騰に身を任せた。とても身体的な聞き方であったとおもう。 モーツアルトの音楽が好き、と臆面もなく言う人は、それだけで逡巡なく軽蔑した。演奏会で彼の音楽に拍手喝采を浴びせる聴衆の存在は、青年の目にはきたないものと映った。美しくないものについてはそれ以上考えなかった。若さの特権と言うべきだろう。未熟な青い心は美と善でいっぱいで、他のものに向ける余裕はなかった。 彼の音楽を、自分の捉えるところの彼の旋律を、表現したいとおもい、一時は音楽の道を志した。 しかし、これをもって、つまり、普通の大学を受験しないでピアノの練習ばかりしていたこと、を逸脱と言うのではない。このようなことは、誰の青春にも必ずあるひとコマにすぎない。 ちょうどそのころ、私は鳩と出会った。これも音楽と同じくらい強い陰翳を学生の心に刻んだ。都会のキジバトやドバトたち。ほとんど神の使いと私には思われた。一つの衝撃だった。 そして今、私はもう三十路も半ばを過ぎて、相変わらずさまようている。通学途上に鳩を見て芯から震えていたあの頃と、どこか変わったろうか。 数日前、中年な私は日記にこう書いている。 「鳩の目と空と人は知的生物であるといふこと これら三つが導いてくれるだらう」 驚くべきことではないだろうか。いまだにこの人間は導きを必要としている。 高校時代の日記と今の日記を比べてみたら、同工異曲のよい実例が得られるかもしれない。 私は何も変わっていないのだろうか。それとも、幾分かは前に進んだのだろうか。本質は同じで、意匠がより洗練されたのだろうか。変化せる一。しかし、問題なのはその変わっていない質の方ではないか。 進歩が幻想なのか、停滞が現実なのか、その逆が真なのか、またはこのような設問の仕方自体が問題なのか、悩んでみたが、答えは出ない。 私はこれまで意図的に、という意味は、方法的に