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読者への手紙(7)

これまでの、「読者への手紙」  (1) ~ (6) (承前)  この本は忠実な記録です。実験対象を見つめて客観的に記述する学生の素朴な態度と変わりません。唯一違うのは、実験対象が自分でもあるということです。観察者と対象が同一なのです。私は歌を歌ったのではありません。かわいた散文で記録しようとしただけです。これは表面だけを見る観察眼にとっては、現代の自由詩と片づけられるかもしれませんが、実質は、きわめて散文的なのです。  この、散文と韻文の錯綜、という点も、この著作のひとつの特徴かもしれません。散文的なるものと韻文的なるものとが交錯し、変容していく様が、文藻となって現れて行きます。記述者の態度に、韻文散文の別があるわけではなく、事柄に沿う中で、自然とそのようになったということです。  この本の中心たる、なにか、は知られていません。何かについて書くのではないのです。その何かは、自分の外にあって、肉眼で観察可能な何かではありません。自分の内にあるのでもありません。内にあるものを、ひるがえされた眼差しでもって省察する、のではありません。内でも外でもない、それは自分の一部、なのであり、自分の根元なのであり、つまり、自分なのであります。そこを問い、そこを見ようと思うのならば、おそらく方法的議論が必要になるでしょう。しかし、方法について考えるのも、自分なのです。私は、そのどこまで先回りしてもその先端を追い詰めることができない、そんな先回りを延々と繰り返しながら、このような考えというか、状態に至ったのであります。それは、まづ何も考えないこと、まづ何も企図しないこと、まづ生活をしないこと、まづあらゆる思いを放擲すること、です。本を書こうという意図すらも当然捨てられるべきものです。捨てるという行為も捨てなければなりません。捨てるという行為を選択するのは、これはひとつの方法に違いありません。よって、人為的な方法はすべて捨てられねばなりません。捨てることを捨てる。しかし、これもまた永遠の循環に陥ります。捨てることを捨てるなら、やはりそれはまだ捨てていることに変わりはないのです。ここにおいて、実は、捨てることと、その正反対の、しがみつくこと、得ること、保持すること、が接近を始めます。反対の極端が実は惑星の輪のようにつながっていて、じつは一番遠いところが一番近いところ

読者への手紙(6)

これまでの、「読者への手紙」  (1) ~ (5) (承前)  創造は破壊であります。というのは、語呂がよいのでつい言ってみたくなるのですが、いささか不正確な物言いかもしれません。創造には必ず破壊が伴う、と言った方が親切でしょう。これは別に文筆に限るものではありませんから、あえて説明せずともだいたいの方に得心して頂くことができましょう。破壊というのは家の取り壊しのような大げさなものではありません。もっと静かであまり音のしないものです。壊すのは目的ではありません。ただそれは通らなければならない道筋なのです。つらつら思いますに、そしてこれは単なるこの場限りの思いつきではなく、私の過去生の中でしつこくも繰り返し現れてきたことなのですが、創造でないものに価値はないのです。一切ありません。創造によく似たものや創造に近いもの、創造であることを主張はするが実は違うもの、あるいは創造に見せかけた偽物など、世はまがいもので溢れています。いや、私は付け加えるべきでしょう。私にとっては、無価値なのです。何らの意義も看取しえないものなどそうそうあるものではないのですから。私にとっては、と言うより、私の仕事にとっては、と付け加えるべきかもしれません。ただ、どんなに美しく、また立派に仕遂げられた労作も、それが文学であれ演奏であれ論文であれ、本当に、無意義なのです。自分でも驚くくらいそうなのです。鳴り止まぬ拍手喝采の中、アンコールを待たずに、独り席を立って厚いドアを開け、足早に、それこそ何か用事でもあるかのように、心に言いようのないさびしみのみを抱いて、そそと立ち去ることが、いったい何度あったか数え切れません。そんなとき、帰りの電車に揺られながら、ならば、と疑問をおもふのです、わたしの心は、どんなものがあれば満たされるのだろう、と。  私たちはこれまで様々な言葉を連ねて来ました。しかし私には、触れられていない事柄があるように思えました。それこそが肝心なことであるのに、それに直接取り組んだ文章は管見の及ぶ範囲にはありませんでした。この状況はもちろんその事柄自体に原因があるのです。私は、今やそのときなのだと思いました。今はそのようなときなのだと解釈しました。個人の企図として筆をとったのではありません。書こうとしたとしても、時が来ていなければ書けるはずはないのです。言葉の氾濫し

読者への手紙(5)

これまでの、「読者への手紙」  (1) ~ (4) (承前)  詩的言語についての説明の雲行きがあやしくなって参りましたので、ここらでやめておきましょう。私が読者の方に申し上げたいのは、この本で使われている言葉の多くは、何らかの体験内容について説明したり表現したりする記号として用いられているのではない、ということです。  文章として美しくない箇所はたくさんあるのですが、それでもあえて申しますと、この書き物には、稚拙な表現などありません。その言い方は、何かを表すのにもっとよい手段、ことばの使い方があるという思考を含意していますから。何かなど、ない、のであります。すなわち、ことばがすべてであって、その背後に汚れていないままの何か不定のものがあるわけではありません。  言語を体験としてとらえてもらいたいのです。言語自体がすでにひとつの認識であり、体験された現実なのです。ですから、言語から体験へと、言語から意味へと、言語から表現内容へと、遡る必要はありません。言語が表現する体験など存在しません。言語が体験なのです。よって、作者と読者はここにおいて、詩的言語において、同一の地平に立つことになります。テキストを読むという行為において、作者は読者になり、読者は作者となるのです。  このような文章の解釈の基準、つまり正しさの規準ということですが、は、おのずから異なって来るようです。筆者の見解は、特権的な立場にはありません。むしろ読者のそれと完全に同等なのです。ここにおいて、正しさの規準は、原著作者の表現意図との一致、ではありません。すると、何の基準もないのでしょうか。つまり、何をどう解釈しても自由であり、読者はそれぞれ勝手に好きなように読めばそれでよいのでしょうか。  いかにも、解釈は自由です。しかし、それが良い解釈であるかどうかは別の問題としなければなりません。とは言っても、ある読み方がよいかどうかを判断する論拠が不透明な現状のままでは、なにもかも善しとするのが理なのです。  極端な事例ですが、私の本を読んだ、面白かった、と縄文人に声をかけられる場合を想像してみましょう。当時はまだ現在のような文字はなかったはずですから、彼は一体何を読んだのでしょう。私はふと思います、彼のしたことは読書と言えるだろうか。彼にとって、書き連ねられた文字列は、一