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町のお祭り

町の祭りがあって、少しだけ覗いて来ました。 この町に越してきて初めてのイベントで、恐る恐るコミュニティセンターという建物に入ると、玄関の上り口に緑色のゆるキャラがお出迎え。愛嬌があるというよりは、奇怪さを感じさせる造形と配色で、子供たちも素通り。町のキャラクターというわけでもなさそうでしたので、いまだに何だったのか謎ですが、役場然とした建築でしたので、雰囲気を柔らげるために置いたものかと察します。 受付があって、催し物の案内など聞けるかなと想像していたのですが、それらしい机も人も見当たらず。仕方なしに置いてあったパンフレットをしばらくじっと読んでみたのですが、どうもよくわかりません。 実は家人に頼まれて、あるゆるキャラがダンスを披露するステージの、写真を撮ってきてほしいということでしたので、重い腰をあげて歩いて来たのです。 ダンスの開始時刻は書いてあるのですが、場所が書いてありません。どこかに掲示があるのかと、あたりを見て回りましたが、やはり時間だけで場所の表記がない。 困ったなあと思っていると、私の前を通り過ぎ、子供連れの家族が数組、階段を上って二階に行きます。これはきっとダンスを見に行くに違いないと当たりをつけ、後についていくことにします。 二階も人で溢れています。廊下に役場の職員らしき男性が立っていましたので、尋ねてみると、奥の部屋でもうすぐ始まるとのことで、ほっとして部屋に入ると、来賓の挨拶中で、しばらく待っていると、写真コンテストの表彰式が始まり、その後いよいよかと身構えれば、音響機器の故障で演目を入れ替えるとのアナウンスが。 今さら部屋を出るのも具合が悪いので、あぐらをかいたまま子供たちの体操を眺め。うさぎさんとパンダさんとラッコさん・・・? その後、舞台の脇で待機していたゆるキャラが、舞台の中央に登場。曲にあわせて踊り始めます。しばらく見て、よいシャッターチャンスを伺うつもりでしたが、1分とたたない内にまさかの終演。あわてて写真を撮りました。せめてフィギュアスケートと同じくらいの時間は踊ってほしうございました。 写真を見せると、家人は喜んでいました。ゆるキャラ(が好きな)友達にも転送した様子。 晴れ間のさわやかな、冬の残りの一日でした。 窓枠にかかったままの干され柿

あり方といふ問題(三)

食べた後すぐ横になると牛になっちゃうよ、と小さい頃に親から注意された記憶がある。健康上の関心もあったらうが、多分そのこごとの主眼は、怠惰への戒めにあったとおもはれる。かやうな教育的訓戒の目指すところは何であらうか。食べるときは腹八分で留めておき、食べた後はすぐに仕事に取り掛かれるやうにしておく。子供は、身を削って働くことが推奨されてゐるのかなといふ気になる。 昼近くになってやうやく起床して来た子供に、結構な御身分でございますこと、と皮肉を言ふ。これはもちろん、庶民的価値観からすると、誉め言葉ではなく、身分不相応な振舞ひをした子への非難であり、裏を返せば、もっと早く起きて勉強しろ、といふ意趣なのである。 怠惰は悪、勤勉は善なり。 かうした価値基準について、時代的、社会層的、思想的由来は今は問はないでおかう。我々の問題は、満足してゐるといふ肯定的状態は、疑ひなく善いものであるかといふ点にある。 腹十二分まで詰め込んで、太った牛は、容易に動けず、体も心も、まどろみの内に日を終へるだらう。労働はできない。満ち足りた人間は、この牛に似てゐる。 満足はなにか悪いことのやうな気がしてしまふ。お腹いっぱい食べて惰眠をむさぼるより、不満足でゐたとしても、あくせくと他の人々のためになるやうな仕事に精を出し疲れ切って眠る方を選ぶ、いや、選ばないではゐられない。このやうな心持ちは、きはめて容易に想像できる。 現実に、ただめし喰らひとか穀潰しとか高等遊民とか、蔑称として使はれる場面が多いやうにおもふが、さう非難される当の人達は、楽な生活を楽しんでゐるかとおもへば、案外逆に苦しんでゐるもので、事情は様々でも、ままならない状況によりさうした生活を強ひられて送ってゐることが多い。ひときれのパンで飢ゑをまぎらし、身を粉にして働きぼろぼろに疲れ果てた人の方が、到底満腹でないにもかかはらず、なぜかより満ち足りてゐるといふこともある。 かといって、空腹のまま走る馬車馬の生活に、十全の満足を感じてゐるわけでは決してなく、もっと楽な生活を空想するのが常である。生涯遊んで暮らせるだけの金額が手に入った場合でも、同じやうに働き続けるものか、疑はしい。生存といふ最低限の課題をこなしてゐるのみであって、満足してゐるわけではない。 冒頭に述べた訓告に戻らう。怠惰を怖れるのは、怠惰に慣れて

あり方といふ問題(二)

 ~ 前回 のあらすぢ~  満足してゐるのと不満なままでゐるのとどちらがよいだらうか。  所詮豚は豚なのだから、どちらでも大して変りはない。  ならば飢ゑてゐるよりは満たされてゐる方がましといふものだらう。 さて、前回のつづきです。もっとも今部屋の気温が五度ですので、いつまで指がもつか心配、いやもう冷えてゐますが、窓の氷がぬるむのを横目に頑張ることに致しませう。 前回の結論に対しては、以下のやうな反論があるかも知れない。 「豚ならば、さういふ結論でもよいだらう。彼らにとって、最高の目標は食べることであり、その最高の欲求の充足こそが彼らにとっての最大幸福であらうから。しかし、我らは人間であるから、云はばパンだけで事足りるものではなく、もっと何かが必要なのだ。食欲といふのは、人の持つ欲求のほんの一部に過ぎない。その一部を満たしたとしても、それは小さな満足でしかなく、心の空洞は大きく開いたままだ。この空虚を埋める何か、何であれ食物以外のもの、を得ない限り、全体としての満足は得られず、したがって我々は不満なままであり、不幸に留まるのだ。」 豚と人の間に、以上で述べられたほど明確な差があるかは大いに疑問だが、それはさておくとして、たしかに、肉体的欲求の充足のみをもってたれりとする幸福論は、かなり極端であり、生活の実体にもそぐはないやうに思はれる。 実際、食べて満足した人は次に何をするだらう。名誉、富、コミュニケーションといった社会的欲求の解消へと向かふのではないか。言ひ換へれば、満腹してもまだ満足してゐないといふことだ。人の欲望には際限がないと言はれる。社会的要求を満たした後でも、きっとまた別の、精神的な何かが出て来て、人間を駆り立てるに相違ない。 ここで二つの方向が生まれる。ひとつは、豚ならぬ人間が人間として本性的に志向する何かが存在すると考へ、その充足こそが人間の真の幸福であるとする説。もうひとつは、人間に本質などなく、とめどない欲望の流れが続くばかりであるから、その認識に至り、達観することが至善といふ説。 どちらにしても、幸福論の勁さと深みにおいて、その文化の不幸の度合ひが測られるやうで、要するにわかるのは、肉体的にか精神的にか社会的にかはともかく、人間は満足してゐないといふ一点だ。 問題は何なのか。人は飢ゑてゐる。これは実際に

あり方といふ問題(一)

満たされた豚であるのがよいか、満たされない豚であるのがよいか、畢竟かういふ問題でせうか。 満たされた豚は安心し、ぐっすりと眠ってゐます。満たされない方は、飢ゑに苛まれ、何か食べるものを欲して血走った目で奔走してゐます。前者は肥えて落ち着きがあり、後者は痩せ細り時々大声で叫びます。 どちらであるにせよ、様態の違ひが存するのみで、どちらも豚であるといふ点に変りはなし、ならば穏やかでより紳士らしい前者であるのが望ましい、といふことになりさうですが、はて。 そもそも、満足してゐない豚は、満足してゐる豚に成ることを目指してゐるわけですから、両者の違ひは、まだゴールしてゐない途中にあるか、すでに完走し休憩してゐるか、といふ点にあるのでせう。 もしさうならば、どちらの豚であるのがよいか、といふ問ひに答へるのは難しくありません。未完成の作品と完成した作品と、どちらがより好ましいか、といふ選択に似てゐます。お腹がすいてゐる場合、より価値が高いのは、まだ収穫されてゐない麦ではなく、すでに炊きあがった麦飯なのです。 満腹の豚は憩ひ、空腹の豚は愁ふ。 話は単純なのですが、どこかかすかな違和感が生じてゐるやうにおもふのです。気のせゐでせうか。 つづきます