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無言歌

きこえるだらうか 湖の暗い底より ふくらみはなれ 流れなき水の中を ただのぼってゆく 空気のあわの みなもに届いて顔を出す 瞬間に消える そのときのおと 疲れて足をとめた旅人の すすけた耳にもし入るなら あふれた涕をふいたあと 日が暮れて星になるまで 口を結んで見つめることだらう みづうみのおくに うかんだかげろふが 思ひ出の景色に形を変へて ざわめく胸をおさへた手に はやい鼓動が伝はるだらう 闇のとばりが降り 目を夜空に向け 虫のうたを聞きながら 終はるのを待つだらう 涕のすぢをほほにのこして かわいたまなこをつむる 場違ひな声も聞こへない 胸はしづかにうちつづく きこえるだらうか 湖の暗い底より ふくらみはなれ 流れなき水の中を ただのぼってゆく 空気のあわの みなもに届いて顔を出す 刹那に消える そのときのおとが もしも星のあかりにうつされた 小さき胸に寄せるなら 言ふべきこともなく 波立たぬ湖面に 黒き瞳をそそぐだらう

鶺鴒

山のふもとの野草店 軒下に並んだ鉢 そのいくつかにまたがって かけられた巣の中は うぶ毛ばかりの ひなたちで満ちて 客がカメラを向けると 口をあけてしゃがれ声 人が離れると 親が来て 餌を押しこみ 飛んで行く 三週間後 巣立つことになるのは あれらの内 何羽であらうか 振り返って見ると 親鳥が歩いてゐる そらした目が 一番近くの鉢に落ちて コマクサ こまくさ 駒草 小真苦砂

みづうみ

みづうみのほとりに身を運び かなたをのぞむ おだやかな湖面 舟も鳥も浮かばず 午後を告げる鐘が鳴る 休んでゐた人は 思ひ思ひに散ってゆく 朝 門口に巣を見つけた 一匹の蜂が作ってゐたが よく見ると動いてゐなかった 水をかけると離れたが 脚が一本ひっかかってゐる しばらく宙吊りでもがいてゐたが ぽとりと地面に落ちた 脚は途中から切れてゐた もう飛ぶ力がないらしい 信じがたいことに 自分の脚を巣に埋め込んでしまひ 長い間動けずにゐたやうだ 小一時間歩いたり壁をのぼってみたり 用事から帰って見ると 姿は消えてゐた 大きなけやきの陰で みづうみを見つめる 湖面はおだやかで 水鳥のひくあともない

春のなか

春の野原を散歩する 枯れ枝のやうだったこずゑが 芽吹きはじめる 足元を見れば小さなスミレ ボケの赤い花が林を縁取る 灰色の草原は若草色に染まり 乾いた田んぼに水が入れられる 彼方に見える山々は 下の方から色づいてゆく 甘い香りがただようて 花を尋ねて映らない 黄色い蝶が舞ひ 鶯の調べは空に伝ふ 遅咲きの桜の根元には 白い二輪草が揺れてゐる 春が来たといふより 春はたけなはだ たしかに 春は来てゐたのだ 昨日まで わたしはどこを歩いてゐたのだらう なにを見てゐたのだらう さっき人に言はれるまで 木々の芽吹きも草の香りも 田んぼの水も鳥の声も 楽し気に飛び交ふ黄色い蝶蝶も こころに映ってゐなかった なるほど もう春なのだ そしてもうすぐ 夏になるのだらう そのときこそは 風の音が気付かせてくれるに違ひない 冷たいからだを温めて 青い爪に血を通はせる 赤い光の ほがらかな季節が来るのだよと