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ゆきのふるひは

ゆきのふるひは ゆきのふるひは 三月初春のあたたかな かわいたそらに ゆきのまふひは つちもやねもくもも みなおなじいろをして ひとのめをなやます くろい烏がとんでゆく ゆきのまふなか ゆきのつもるなか しづんだゆきのかたまりが ふはりとあしをつつむなか おとたてて さあつもりつづけてよ おほきならっぱふきならして さあいははうよ ゆきのつもるひを つもれかし ゆきこそつもれかしと どこまでもどこまでも おほひつくさうよ つめたいしろい やはらかい ものいはぬ このかたまりで ゆきのふるひ おもいそら ひかりもささず あかるい ゆきのふるひは

あり方といふ問題(五) 間奏 ・・・疲れといふ病・・・

疲れといふのはどこから来るのでせう。 昨晩夜更かしをしてしまひ、二時間しか眠れなかった、それで今疲れて猛烈に眠い、といったことがあります。これは寝れば直ります。 近所の公園に行って全力疾走する、息が切れて動けなくなる、これはしばらく木陰にゐれば直ります。 人と喧嘩して気が立っている、これは相手の顔を見なければ直ります。 では、どうせでう。癒されない疲れといったものがあるでせうか。 あるやうに思ひます。 それは特殊なものでせうか。いや、多分とても身近なものです。 勤め人の二日酔ひくらゐには、日常的に起こる茶飯事です。 一部の人間が稀にかかる病気のやうなものではなく、誰でも普段経験してゐるものです。 共同的に解決する道は、それは例へば祭りであったり踊りであったりといふ形をとったかもしれませんが、この時世には望めませんし、望ましくもないでせう。 ただ、人が抱へたこの爆弾を、そのままにして置くわけにはいきません。放っておけば爆発して自らも周囲も滅ぼすことになると分かってゐるからです。 疲れといふのはどこから来るのでせう。 職場の人間関係がつらい、これは辞表を出せば直ります。 小麦粉をこね続けて右手の感覚がない、これは左手も使へば直ります。 朝から家族の買い物に付き合って、夕方、やるせない、これはふて寝をすれば直ります。 では、どうでせう。人につきまとふ、癒しやうなき疲労感、これはどこから来るのでせうか。 ペンを持つ手が重い、書くことがあったはずなのに、白紙に向かふのが心苦しい、考へたくない、酒に酔って横になるしかない、このままずっと目を閉ぢてゐたい、これは典型的に疲れてゐるのです。 疲れといふのは逃避行でもあります。逆行です。嫌になり、怖くなります。人の前に、「何もかも忘れて気持ち良くなる薬」をぶら下げてみて下さい。どんなに志操堅固な紳士でも、手を出すのに少しのためらひも見せないでせう。 疲れた者はなんの役にも立ちません。彼の口から出る言葉は彼の白昼夢であって、韻律的あるいは学問的装飾で彩られてゐる場合が多いのですが、我々は優れた聞き手であるべきでせう。そのまま耳を傾けるべきものではありません。 この疲れはどのやうにして直るでせうか。それとも、ごまかしごまかし終生まで付き合ってゆかねばならない不治の

ペンのインクについて

以前このブログで触れましたが、今年になってから、左から右へと行を進める、左縦書きという方式に改めました。ひと月ほど試してみて、なんら問題を感じませんので、このまま行こうと思っています。右手でペンを持つ方にはおすすめしたうございます。 今日は少しばかりインクのお話をば。 学生時代にものを書き始めて以来、同じペンを使って来ました。何かのお祝いに頂いたものと記憶していますが、モンブランです。といっても、今店頭で並んでいるものではなく、古いバージョンですが、当時はどこの文房具屋でも置かれていた気がしますので、よく売れた型式だったのではないかと思います。 書いていて思い出しましたが、文房具店ではなく、バッグや財布など、免税品を扱うお店で選んだ記憶があります。一応輸入品ですので、すこし安く買えたからでしょう。通常は試し書きをして自分に合うものを選ぶと思うのですが、きらびやかなショーケースの中からおそるおそる一番安価な品を選択したのは、そういうお店だったからでしょう。 今思うとずいぶんな買い物だったと思います。万年筆を一度も手に持ったことのない人が、書き味を試しもせずに、有名だから大丈夫だろうという無造作な理由で、決めてしまうのですから。失敗しないで済んだのは、幸運と、世の中に巡る少しの善意のおかげと言うべきでしょうか。 もっとも、もしきちんとしたお店で購入していたら、そもそもモンブランを選ばなかった可能性が高うございます。多分ではありますが、プラチナなど、国内産のものを選ぶのではないでしょうか。漢字を含めた日本語の筆記に適したペン先を製造しているメーカーのお品にするのが順当かと思います。 実際、はじめのころは使いづらさに辟易しました。ボトルからインクを吸入するのが手間でしたし、慣れていませんから、手は真っ黒に汚れますし、そもそもの書き心地もよくありませんでした。ペン先がかなり硬いので、融通がきかないというか、細かい漢字など書くには引っかかるというか、しっくりきませんで、結局セーラーのものを自分で買って使っていた時期もありました。 数年は引き出しにしまわれたままになっていたように思います。再び使い始めたのがいつか、きっかけは何だったか、覚えていません。が、様々な万年筆を試してみて、別段不便はないけれども、どこかさびしい気がし始めたのは覚えています。書き

あり方といふ問題(四)

その価値や正・不正、善悪は置いて、満足そのものについて見れば、満足を求めるといふのは自然なあり方におもはれる。 現実は一旦棚に上げて、かう仮定してみよう。満足してゐる状態であり続けられるなら、満腹の状態が永続的に続くことが可能であるならば、どうか。満腹より空腹を選ぶといふ選択肢は選ばれ得るだらうか。その選択にどれほどの納得できる根拠が見出せるだらうか。それでも空腹を選ぶといふ者がもしゐたら、健全な理由なき狂気の沙汰と言はねばならないのではないか。 膨れ上がった腹を抱へてうとうと夢に耽る午後、そんな時間が永遠に続けばいい、さう思ふことはあっても、実際にさうなったら、どういふ感情を抱くことになるのだらう。 これでよいのか、と自問することもあるだらうか。その必要があるだらうか。 現状を見詰めて反省するのは、何か問題が生じてゐて、その解決が求められてゐるから、その手段として思考といふ行動に出るのだとすると、何の苦しみもない状態が存続することが保証されてゐるなら、問題は生起せず、したがって考へるどころか、そもそも行動をする必要もない。 安穏と暮らして行ければよいのではないのか。もしもそれが可能ならば、どうしてそれを取らない理由があるだらうか。 探してみても、さうした理由は見つかりさうにない。 棚に上げた現実をここで戻せば、つまり、ほとんどの「問題」は、求める満足が諸事情により得られない、といふ状況に起因する。問題解決とは、言ひ換へれば、満足に至ることに他ならない。 そもそも満腹の肥えた牛となることが目指されてゐるのであり、実際にさうでないのは、やむを得ない現実の諸条件によって強制された結果に過ぎない。 ところで、もしも上に述べたことが正しいならば、問題とは、欲求充足のために解決されるべき障碍であり、方法とは、解決を導くための手段である、といふことになる。 我々の問題も、そのやうな問題と同質のものなのであらうか。 つづきます