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ため池

ため池に日が差し込んで ぬかるみに靴を取られた 不注意な旅行者の コオトを照らす 冷たい空気が流れ込んで 男の髪とすすきの穂を揺らす 立入禁止の柵の外 近所の人の不安な眼が 黒い池にそそぐ 泥だらけの革靴 水草の枯野 白い日を隠して 氷の華が降りてくる ため池に ぬかるみに 不注意な旅行者の コオトの上に 不安げな眼差しが落ちて 誰にも気付かれないまま 男の髪とすすきの穂が反対に 静かに揺れる

湿原行

作品といふのはおしなべて 壊されるべきものだ それが作られたものであるといふただ一点が 破壊の十全な理由となる わたしは作品が嫌いだ 特によくできた逸品が嫌いだ 傑作といふのは それがただ苦心を重ねて成し遂げられたといふ一点で 唾棄の完全な理由となる 人のゐない湿原に来て きれいなベンチに腰掛ける 笹の葉が風に吹かれて さわさわと音を立てる どうしてわたしはここに来たのか かなしい考へを巡らせる 街には人間がたくさんゐる まるで関係のない生き物に囲まれて ことさらに係累を明示しなければならない しかしほんたうのところ 誰も相手になってくれないので 表と裏の乖離になんとなく疲れて ひとときの憩ひを求めたのかもしれない そんなふうに理由をつけてみては わだかまる不安を覆ひ隠さうとする 高層湿原はいい 大樹が葉を広げて庇護したがることも 草の藪が息を詰まらせることもない 清水を含んで花よりも麗しい水苔の上を 冷えた空気が通り抜けてゆく 老齢期に入ったこの湿原には コナシの低木がぽつんぽつんと立ってゐる 白い花はもう残ってゐなかったが ここは世の理の外かと錯覚させるやうな 信じられない光景だったに違いない   もっとも花が咲いてゐると知ってゐたら わたしは来なかったであらうけれども かはりに今はツツジが控へ目に 朱華(はねず)の花をつけてゐる 高原唯一の色どりは 数日後にはなくなってゐるだらう その頃にもう一度来てみようか 灰色の景色が慾しくて訪れる目を迎へるのは 灰に彩られた面白くもない風景だらうけど

Une nostalgie simple

故郷に帰りたいと云ふ友がゐたら わたしは帰ることを勧めるだらう 友はいやと答へる 諸事情あって帰れないのだ たとへば経済的な理由なら わたしはいつか解決されることを願ふだらう 諸問題が解消した暁には 友は喜んで帰途につくはずだから 世の中では単純な郷愁であるが ここに取り上げたいものの根源は 帰りたいといふ明快な希望だけではない 望郷といふのは一つの感情ではない 帰りたいと同時にまた 帰りたくない 心から帰りたくない あらためてどちらなのか 帰りたいのかたくないのか問ふてみると やはり帰りたいのだと云ふ しかるに帰れないのは 世俗的な事情の所為ではなく 心の底から帰らうとしてゐないからで つまり本心では帰りたくないとおもってゐるからだ さうして厄介なことに かうした願ひの錯綜が全体としては この人に見られる現象の欠くべからざる姿で 家路につく道程の一部であるといふ事情も 認められねばならないのだらう ―――あのすみませんわたくし帰りたいのですけど ―――はいどうぞこちらです足下お気を付けください といふやうにはなぜか運ばない もし運ぶといふ者があるなら 運悪く詐欺にあって騙されてゐるに違ひない 彼は帰ることができるかもしれないが そこが彼の本当の家かどうか 知るものは一人もゐない 実際本当にさうかもしれないので 疑ふ仕方を教へられなかった良き人は 心地よさを唯一の基準としながら 心安く憩ひ続けるのであらう それは一つのあり方であって 否定したり否認したりすべきものではない 地獄といふ場所は 天国の存在を前提としてゐて だからつまりある意味 一種の天獄みたいなものなのだから 騙された者は騙されることによってすでに救はれてゐる 彼はたしかに帰路にある 途方もなく遠い場所で留まってゐるのかもしれないが けして間違ってゐるわけではなく 正しい途の上に置かれてある 矮小な人間はその矮小さ故に偉大とされる そしてもちろん偉大な人間もまた その偉大さ故に偉大とされるのである

白い霧

わたしは誰であったのか 街は白い霧に包まれて 木々の緑葉はしづくをたたへ 人は一人机の前に呆然として うつろなまなこを窓外に投げる もはやこの生でなすべきことはなく 他に叶へたい望みを抱くわけでもなく なすことに興味の一切を失った人は たんぼの稲穂を数へる以外の 何をして過ごしたらもっともらしいのだらう わたしは誰であったのか さう今やうつし世におもひはなく おもひ出されるのは かつてのわたしであり かつてのひとであり かつてのそれであり わたしの元来たところであり 今はかうして帰れないでゐるが 心の隅にきっと情景が残ってゐるのではないかと 不思議に確信するそんな ふるさとのこと わたしは誰であったのか 阿呆になって 他人の目を欺くことはできても 自らの冷めた視線はそらされなかった 我が目をごまかすほどの演技力には 自分は恵まれなかったらしい 面白いとおもはれることは すでにやりつくし 心残りはない なのに生きてあるといふのは 断頭台に頭を突っ込んだまま とうに覚悟はできてゐるのに 細い首を落とすはずの刃が 一向に落ちてこないで 図らずもずっと待たされてゐる そんな罪人の気持ちに よく似てゐる なかなか落ちてこないものだから 体は縛り付けられて動かないものの 自由な頭の内側で 妄想ばかりが駆け巡る その中で ふとひらめいた考へを追ひかける 少しだけ興奮してゐるのは そのおもひに何か真実らしいものが含まれてゐるやうな そんな気をわたしに起こさせたから もしかするとこの生も捨てたものではないのではないかと いやなかったかと 絶望には何かあかるい部分が隠れてゐたのではないかと そしてその光は わたしの心の奥にあり かつてわたしを戸惑はせ 結果としてこの生をあきらめさせた あの場所から漏れ出た一条ではないかと このおもひを辿って行けば きっと近くまでは至り着くのではないかと 年甲斐もなくわたしは興奮したのだ わたしは道を踏み違へたのだらうか 処刑台の上で気が付いたのは あまりにも遅すぎたと言ふべきだらうか もっと早くにさとってゐれば よりよい生が送れたのではなかったか さあそれはわたしには判断のつきかねる問題だ さうかもしれないしさ

雨が降ってきたので傘をさそうとおもった ところが傘はかばんに入っていなかった 家に置き忘れてしまった このままでは濡れてしまう わたしは雨宿りのできる軒先を探した 近くに人家はなかったが幸いなことに 大きなけやきの木があったので 広い枝先をかりることにした 肩についた雨滴を払ひ 空模様を確認する 灰色の雨雲が垂れこめて 晴れ間は望めそうもない 一時の宿りにいかほどの意義があろう わたしはふたたび路上の人となり 散歩を継続することにした すでにあらかた濡れているので より打たれた所で大差はないと判断したのだ 問題はめがねの方で 前がかすんでまったく見えない 拭いてもすぐしたたるから仕様がない 山桜の小路に重い身を運ぶ このままもし倒れたら 死因は何になるのだらう 急性感冒 風邪に急性が認められるかは知らない だが風邪を引いた原因は雨中を歩くといふ決断にあり その断は途切れずに続く雨雲のせいであり そもそも天気の変わりやすいこの季節に 折り畳み傘を忍ばせるのを忘却したわたしのせいだ そしてその愚は生活に対する投げやりな気持ちから生じたものなので 死因は個人的な生に対する不真面目な態度に帰着した わたしはめがねと顔の隙間から前を定めつつ 雨に降られれば去らざるを得ない身の上を案じた 路傍の小さな黄色い花がこちらを見ていた

忘れ難きひと

たとへば限りない悲しみを感じるのは 買ひ物袋をさげた帰り道 腰の曲がったおばあさんが 一歩また一歩前に進む 後ろ姿が目に入る時 わづかに足を緩めて 追ひ越してゆくわたしは 気にしてゐない振りをする 文字を拾ふより 歌に身を震はせるより 画布に嘆じるより 一人の老婆とすれ違ふ方が 時代的な経験だといふのは 特殊なことなのだらうか どうなってゐるのだ われらの信仰は 我々には限界がある いやそれは限界なのだらうか 我々は見えるものしか見ることができない そして私は限られた個体として 我々に見えるものすべてを目にはできない 私は限られた時を与へられ生きるに過ぎない それにもっと大きな難題がある 実際には 見えるものを見ることすら難しい ほとんどの場合 見てゐるのではなく見させられてゐるのであり それがしかも悪意ある他者からの強制ではなく 自分自身の同意と協力を取り付けて行はれる 優しい慈善事業なのだから さあ人の子よ 斯様な晴れ間のもとで お前は絶望することができるか 見えるものを見ることすらままならない ならば一足飛びに さうかつてイカロスが試みたやうに 飛び越えて行けばよいのではないか だが見えるものを超えるための翼は 我々の背には生えてゐない ならばあとから作ればいい かの失敗者の過ちから学んで 溶けない翼を生やさうではないか ああ この希望は誰のものだ 見えないものを見ることはできない 無謬のやうに見えるその命題を支へるのは さういふ気がするといふ個人的事情に過ぎない その当否はおいて さう信じるのが正しい方法の内に含まれてゐるかどうか これは考へることができるかもしれない 今は正解を得ることを目的とすべきではなく 正しく問ひ得てゐるかを吟味すべきなのだらう そしてさうしようとおもふなら くたびれた老婆の忘れがたき後ろ姿を 思ひ返してみるのがよろしからう 与へられたものを受け取る ただそれだけのことも かんたんといふわけではないのだから

蝶の夢

一羽の蝶が野原を舞ふ とびはねる おちる 緩急をつけたステップで 翻弄したかと思へば 羽をひらいて優雅にすべる 自由で 自在で とらへどころがない はられた水面に 遠くの山が 逆さに映る とんでゐたのが 急に降下して 茂みに隠れる 何を探してゐるのだらうか 探しものが見つかったのだらうか そこにあるのか その緑なす草と 色あせた枯れ葉のあひだに 一羽の蝶が野原を舞ふ 長い長いさがしもの どこに隠れてゐるのか いつ見つかるのか そもそもどこかにある物なのか わからない疑問を抱へながら 蝶の体がふわりとはねる la felicita 昨晩入った料理店の メニューに書かれた文字が 頭に浮かんで消える もしそれを探してゐるなら それを知ってゐるといふことになる あるいは それを求めつつ それが何かをもたづねてゐるなら 何のことはない 仕事の手を止めて 疲れた顔を遠くに向ける 年老いた男のやうに 夢を夢と知りつつ見続けて 言葉も情熱も見失ひ 慣れと忘れによって保たれた幸せに 薄いほほゑみを貼りつける そんな街角の風景と そんなに変らないといふことだらう 一羽の蝶が 野原を舞ふ

落日

あかねさす むらさきの 落日に のこり日に もろびとは あしをとめ つないだ手 かたくして 言ひたげな まなざしが ちからなく 声にならない ことば呑み 声にならない うたうたふ かへるにさめた 耳をあづけて あかねさす むらさきの らくじつに しづむ日に 声にならない 声あげようと ひらいた口が ちからなく またとぢて まなざしが なごり日に ただ 問ひかけて

無言歌

きこえるだらうか 湖の暗い底より ふくらみはなれ 流れなき水の中を ただのぼってゆく 空気のあわの みなもに届いて顔を出す 瞬間に消える そのときのおと 疲れて足をとめた旅人の すすけた耳にもし入るなら あふれた涕をふいたあと 日が暮れて星になるまで 口を結んで見つめることだらう みづうみのおくに うかんだかげろふが 思ひ出の景色に形を変へて ざわめく胸をおさへた手に はやい鼓動が伝はるだらう 闇のとばりが降り 目を夜空に向け 虫のうたを聞きながら 終はるのを待つだらう 涕のすぢをほほにのこして かわいたまなこをつむる 場違ひな声も聞こへない 胸はしづかにうちつづく きこえるだらうか 湖の暗い底より ふくらみはなれ 流れなき水の中を ただのぼってゆく 空気のあわの みなもに届いて顔を出す 刹那に消える そのときのおとが もしも星のあかりにうつされた 小さき胸に寄せるなら 言ふべきこともなく 波立たぬ湖面に 黒き瞳をそそぐだらう

鶺鴒

山のふもとの野草店 軒下に並んだ鉢 そのいくつかにまたがって かけられた巣の中は うぶ毛ばかりの ひなたちで満ちて 客がカメラを向けると 口をあけてしゃがれ声 人が離れると 親が来て 餌を押しこみ 飛んで行く 三週間後 巣立つことになるのは あれらの内 何羽であらうか 振り返って見ると 親鳥が歩いてゐる そらした目が 一番近くの鉢に落ちて コマクサ こまくさ 駒草 小真苦砂

みづうみ

みづうみのほとりに身を運び かなたをのぞむ おだやかな湖面 舟も鳥も浮かばず 午後を告げる鐘が鳴る 休んでゐた人は 思ひ思ひに散ってゆく 朝 門口に巣を見つけた 一匹の蜂が作ってゐたが よく見ると動いてゐなかった 水をかけると離れたが 脚が一本ひっかかってゐる しばらく宙吊りでもがいてゐたが ぽとりと地面に落ちた 脚は途中から切れてゐた もう飛ぶ力がないらしい 信じがたいことに 自分の脚を巣に埋め込んでしまひ 長い間動けずにゐたやうだ 小一時間歩いたり壁をのぼってみたり 用事から帰って見ると 姿は消えてゐた 大きなけやきの陰で みづうみを見つめる 湖面はおだやかで 水鳥のひくあともない

春のなか

春の野原を散歩する 枯れ枝のやうだったこずゑが 芽吹きはじめる 足元を見れば小さなスミレ ボケの赤い花が林を縁取る 灰色の草原は若草色に染まり 乾いた田んぼに水が入れられる 彼方に見える山々は 下の方から色づいてゆく 甘い香りがただようて 花を尋ねて映らない 黄色い蝶が舞ひ 鶯の調べは空に伝ふ 遅咲きの桜の根元には 白い二輪草が揺れてゐる 春が来たといふより 春はたけなはだ たしかに 春は来てゐたのだ 昨日まで わたしはどこを歩いてゐたのだらう なにを見てゐたのだらう さっき人に言はれるまで 木々の芽吹きも草の香りも 田んぼの水も鳥の声も 楽し気に飛び交ふ黄色い蝶蝶も こころに映ってゐなかった なるほど もう春なのだ そしてもうすぐ 夏になるのだらう そのときこそは 風の音が気付かせてくれるに違ひない 冷たいからだを温めて 青い爪に血を通はせる 赤い光の ほがらかな季節が来るのだよと

桜がひらけば春が来る かへるがないて つばめ舞ふ この地の人は笑顔になる 花見にひきずりだされて 幽霊のやうにふらつく 天下第一のさくらばな このこころにはうつらない しゃがんだ人が手招きする スミレが咲いてゐる 薄紫の小さな花弁は 端が踏まれて折れてゐる 誰かがしゃべる 桜がそそぐ 痛みを覚えて そっと胸をおさへる 男の子が人波を すり抜けて行く 振り返って呼ぶと 親はカメラを向ける 花の向かうに 青い空 あかるげな声が満ちる 木漏れ日の下 失はれた過去を取り戻して 記憶の水面に花が浮く 悲しさうな目をして 見つめる人がゐる 桜がひらけば春が来る かへるがないて つばめ舞ふ スミレが咲いて この地の人は笑顔になる

すこやかなたんぽぽ

すこやかなたんぽぽ むらさきいろの おおきなすみれと ほそいやまぢのいりぐちを すこしだけ はなやかにしている いえにかえってしらべたら すみれは外来種で アメリカなんとかという 名前がついていた たぶんたんぽぽも 最近いこくよりはいったものだろう すこやかなたんぽぽと あまりかれんとはいえない おおきなすみれが いりぐちふきんにかたまって 群落を形成している 黄色と紫色があでやかで 高原の日が差し込むと じつに 鮮明だ はっきりしすぎて ああこれはかつて宣教師が 教化のために準備した 布石の一環なのだと 疑われた なんだろう なんだろうか このいたみは みちのとちゅうにたちどまり からだをかたむけて こだちのあいだをみつめる なんだろう なんなのだろうか これは とりのこえがきこえる 何種類いるのだろう たくさんだ 三種類だ きみょうだ じつに きみょうだ 我々はだまされたのか そうでないなら これはなんなのだ どういったじたいなのだ 釈明を要求する と叫んでも 木々の間に吸い込まれるだけで 小鳥たちは一瞬黙ることすらせず 変わらず歌う 厳しい目でにらんでも いっこう手ごたえがないので おもいきって力をぬいて やさしい目で森の奥を見つめてみる するとどうだろう 一羽のきつつきが降りてきて うやうやしくおじぎをした さきほどから気になっていたのだが こわくて近寄れなかったらしい おともだちになりましょう と提案したら いいですよと言って 肩の上にのってきた けれど 一つだけ条件があります きつつきはささやいた カエサルのガリア戦記をください いいよと答えた 今度持ってきてあげる でもめづらしいね そんなものを欲しがるなんて 日本のきつつき界でいま 一番あついのがカエサルなのです 来た見た勝ったと言われても うまく返せないで困っているのです 君は流行に乗り遅れたきつつきなのだね なら友達のよしみで忠告してあげるけど もう遅いんじゃないかな 今さら読んでも君が読み終わるころには モードは移り変わっているとおもうよ それもそうですね けどそうすると吾輩は何を読むべきでしょうか

よいこのみなさんへ

写真をとった ぼやけていたので レンズを拭いてまたとった それでもまだぼやけていたので ぼやけているのは自分の目だとわかった ハンカチを出してこすったら 少しだけはっきりした気がする 昨日までどのくらい見えていたか はっきりと思い出せないから どういう気にもなれるのだけど よいこのみなさんへ あぶないからのぼらないでね しかし登るのはよりよく見ようとするからだ 現状に満足しないでよりよいものを求めるからだ はじめから登ろうとしない子は 想像力が足りないか勇気がないか どちらにせよあまりよい子とは言えない 登って落ちないのがよい子だろう よいこのみなさんへ あぶないからおちないでね 晴れた休日の昼前の 歩道を行く人影の 信じがたいくらい当然で どうにもならないくらい 絶望的なこと 別に聞きたいわけではないが 何年前からその顔をつけて そうやって手を振って歩いているの はづかしいと思わないのは 本当に知らないからかあるいは 知っているのに知らないふりをしているからか どちらにしてもつまるところは どうしようもないわけだが 知っても詮無きことはあるし 知らせてもどうにもならぬことはある 親切心から思っていることを 空気の読めない者が叫ぶ 一瞬ひやりとするが 誰かが取り繕って 何事もなく元通り 二千年前のみなさんと 二千年後のみなさんへ ごきげんよう どうですか 今日もまた よく晴れていますよ

やまぶきの便り

やまぶきは日に日に咲きぬ うるはしと我(あ)が思(も)ふ君はしくしく思ほゆ (万葉集 巻17より) 越の国で臥せっている家持に対して贈られた、大伴池主の返歌です。 「山吹が日に日に咲いていますよ、大兄のことがしきりに思われますことよ」 こちらではまだ開いていないのですが、東京ではもう咲き始めたということで、いよいよ明るい季節の来るのを感じています。部屋の気温も二十度近くなる日が多くなってきました。今日は朝から雨がしくしく降っています。昼からやむとの予報でしたが、はて。 うるはしと我が思ふ先哲の、洞窟の比喩のことが今朝ふと思い出されました。この物語を正しく導く解釈学があればよいのかも知れません。固定された理解に常に再考の余地を与え、読み手の状態と共に導かれる意味もその都度また変化していくことを受容する、そんなおとぎ話があるとしたら、この寓話もその一つでしょう。解釈し直すということは、対話の中で生まれるものではありますが、作品の側からというよりは、読み手の側からの働きが大きいと思います。作品は鏡のようで、覗き込む者はそこに自分の顔を見つけます。鏡はその痴愚を指摘してくれるほど親切な道具ではありません。 ただ、寓話は寓話であって、つまり寓話に過ぎないのであって、だからこそ、そこに凝縮して語られた内実に関しては、その話を読んでよく研究しただけでは達しえないものです。それは寓話の外で、各人が行わなければなりません。行ってみてはじめて、その物語で語られていたことの実際に、気が付くというものです。自分の足で歩いてみてはじめて、その地図が何を指示していたかが分かる、そういう種類の地図なのであり、何に対しても開かれた暗号なのです。解こうと努力する試みは不毛に終わるでしょう、諦めて一周して戻ってきたら解かれていた、ということはあるかもしれません。しかし所詮その開示もまた限定的なものに留まるのであり、物語の大きさという尺度があるならば、それは様々な段階の開明を包含する度合となるでしょう。 大きな物語。どこまで大きいか、まだ果ての見えない物語。それを解釈するということは、それを書き直すということ、そんな物語。 やまぶきは日に日に咲きぬ うるはしと我が思ふ事はしくしく思ほゆ  そんな四月のはじめの日。予報通り、日がさして来ました。

春に降る雪

ブログのテンプレートを変更してみました。 以前使っていたのはどこかのサイトでダウンロードしたもので、なかなか気に入っていたのですが、googleで用意された型式ではなかったため、フォントやサイズをこちらで指定してやる必要があり、手間でしたし、スマートフォンで閲覧すると別の様式に強制変更されてしまう等、不具合が多々ありました。 今回新しいテンプレートが配信されたのを機に、変にいじくりまわさず、一般的な型に乗っかることにしました。少しでも読みやすくなったのであれば幸いです。 連絡フォームも追加してみました。メールアドレスとコメントを記入して送信ボタンを押して頂きますと、直接私のメールアドレスまでその内容が届く、という仕組みです。感想などあればどうぞ気楽にご利用ください。 このブログを始めて二年以上経ちますが、いまだにコメントを受け取ったことがありません。一件もないのです。文章がつまらないからに違いないのですが、悲しいですね。 昨日はずっと雪が降り続けていましたが、ここでは四月の雪はすぐにとけるみたいです。とは言えまだ田んぼは真っ白で、窓際で書いておりますと、まぶしくて目が細くなります。道半ばにして前途の行方も知られず、ただ奇妙な確信めいたものだけがしまい込んだ奥の院にくすぶり続けているようです。もしかしたらそれこそが消さねばならない火なのかも分かりませんが、今はただじっと静かにしています。待っているのでしょうか。いやそれも分かりません。どこかへと向かう心はショックを受けて麻痺しています。さあ、何が始まるのでしょうか。始まらないのでしょうか。つまらない分別は、まだ鍋の中に残って、捨てられないでいます。捨ててしまったら食べるものがなくなってしまうではありませんか。そうしたら、生きて行けないでしょう。ええ、でも、私の作りたい料理は、それではないような。空の鍋を炊いて、死んでみるのも、人間にはよくあることかもしれません。 あらゆる認識は、一度捨てられなければなりません。それが真か偽か、正か不正か、合致か不一致か、論争する大きな声を聞きながら、その場を静かに離れましょう。どうしても、です。たとえこの上ない真実だとしても、必ず手放さなければなりません。これを歴史において方法的に遂行すること、これが、春に降る雪の、とけてなくなることであります。

ゆきのふるひは

ゆきのふるひは ゆきのふるひは 三月初春のあたたかな かわいたそらに ゆきのまふひは つちもやねもくもも みなおなじいろをして ひとのめをなやます くろい烏がとんでゆく ゆきのまふなか ゆきのつもるなか しづんだゆきのかたまりが ふはりとあしをつつむなか おとたてて さあつもりつづけてよ おほきならっぱふきならして さあいははうよ ゆきのつもるひを つもれかし ゆきこそつもれかしと どこまでもどこまでも おほひつくさうよ つめたいしろい やはらかい ものいはぬ このかたまりで ゆきのふるひ おもいそら ひかりもささず あかるい ゆきのふるひは

あり方といふ問題(五) 間奏 ・・・疲れといふ病・・・

疲れといふのはどこから来るのでせう。 昨晩夜更かしをしてしまひ、二時間しか眠れなかった、それで今疲れて猛烈に眠い、といったことがあります。これは寝れば直ります。 近所の公園に行って全力疾走する、息が切れて動けなくなる、これはしばらく木陰にゐれば直ります。 人と喧嘩して気が立っている、これは相手の顔を見なければ直ります。 では、どうせでう。癒されない疲れといったものがあるでせうか。 あるやうに思ひます。 それは特殊なものでせうか。いや、多分とても身近なものです。 勤め人の二日酔ひくらゐには、日常的に起こる茶飯事です。 一部の人間が稀にかかる病気のやうなものではなく、誰でも普段経験してゐるものです。 共同的に解決する道は、それは例へば祭りであったり踊りであったりといふ形をとったかもしれませんが、この時世には望めませんし、望ましくもないでせう。 ただ、人が抱へたこの爆弾を、そのままにして置くわけにはいきません。放っておけば爆発して自らも周囲も滅ぼすことになると分かってゐるからです。 疲れといふのはどこから来るのでせう。 職場の人間関係がつらい、これは辞表を出せば直ります。 小麦粉をこね続けて右手の感覚がない、これは左手も使へば直ります。 朝から家族の買い物に付き合って、夕方、やるせない、これはふて寝をすれば直ります。 では、どうでせう。人につきまとふ、癒しやうなき疲労感、これはどこから来るのでせうか。 ペンを持つ手が重い、書くことがあったはずなのに、白紙に向かふのが心苦しい、考へたくない、酒に酔って横になるしかない、このままずっと目を閉ぢてゐたい、これは典型的に疲れてゐるのです。 疲れといふのは逃避行でもあります。逆行です。嫌になり、怖くなります。人の前に、「何もかも忘れて気持ち良くなる薬」をぶら下げてみて下さい。どんなに志操堅固な紳士でも、手を出すのに少しのためらひも見せないでせう。 疲れた者はなんの役にも立ちません。彼の口から出る言葉は彼の白昼夢であって、韻律的あるいは学問的装飾で彩られてゐる場合が多いのですが、我々は優れた聞き手であるべきでせう。そのまま耳を傾けるべきものではありません。 この疲れはどのやうにして直るでせうか。それとも、ごまかしごまかし終生まで付き合ってゆかねばならない不治の

ペンのインクについて

以前このブログで触れましたが、今年になってから、左から右へと行を進める、左縦書きという方式に改めました。ひと月ほど試してみて、なんら問題を感じませんので、このまま行こうと思っています。右手でペンを持つ方にはおすすめしたうございます。 今日は少しばかりインクのお話をば。 学生時代にものを書き始めて以来、同じペンを使って来ました。何かのお祝いに頂いたものと記憶していますが、モンブランです。といっても、今店頭で並んでいるものではなく、古いバージョンですが、当時はどこの文房具屋でも置かれていた気がしますので、よく売れた型式だったのではないかと思います。 書いていて思い出しましたが、文房具店ではなく、バッグや財布など、免税品を扱うお店で選んだ記憶があります。一応輸入品ですので、すこし安く買えたからでしょう。通常は試し書きをして自分に合うものを選ぶと思うのですが、きらびやかなショーケースの中からおそるおそる一番安価な品を選択したのは、そういうお店だったからでしょう。 今思うとずいぶんな買い物だったと思います。万年筆を一度も手に持ったことのない人が、書き味を試しもせずに、有名だから大丈夫だろうという無造作な理由で、決めてしまうのですから。失敗しないで済んだのは、幸運と、世の中に巡る少しの善意のおかげと言うべきでしょうか。 もっとも、もしきちんとしたお店で購入していたら、そもそもモンブランを選ばなかった可能性が高うございます。多分ではありますが、プラチナなど、国内産のものを選ぶのではないでしょうか。漢字を含めた日本語の筆記に適したペン先を製造しているメーカーのお品にするのが順当かと思います。 実際、はじめのころは使いづらさに辟易しました。ボトルからインクを吸入するのが手間でしたし、慣れていませんから、手は真っ黒に汚れますし、そもそもの書き心地もよくありませんでした。ペン先がかなり硬いので、融通がきかないというか、細かい漢字など書くには引っかかるというか、しっくりきませんで、結局セーラーのものを自分で買って使っていた時期もありました。 数年は引き出しにしまわれたままになっていたように思います。再び使い始めたのがいつか、きっかけは何だったか、覚えていません。が、様々な万年筆を試してみて、別段不便はないけれども、どこかさびしい気がし始めたのは覚えています。書き

あり方といふ問題(四)

その価値や正・不正、善悪は置いて、満足そのものについて見れば、満足を求めるといふのは自然なあり方におもはれる。 現実は一旦棚に上げて、かう仮定してみよう。満足してゐる状態であり続けられるなら、満腹の状態が永続的に続くことが可能であるならば、どうか。満腹より空腹を選ぶといふ選択肢は選ばれ得るだらうか。その選択にどれほどの納得できる根拠が見出せるだらうか。それでも空腹を選ぶといふ者がもしゐたら、健全な理由なき狂気の沙汰と言はねばならないのではないか。 膨れ上がった腹を抱へてうとうと夢に耽る午後、そんな時間が永遠に続けばいい、さう思ふことはあっても、実際にさうなったら、どういふ感情を抱くことになるのだらう。 これでよいのか、と自問することもあるだらうか。その必要があるだらうか。 現状を見詰めて反省するのは、何か問題が生じてゐて、その解決が求められてゐるから、その手段として思考といふ行動に出るのだとすると、何の苦しみもない状態が存続することが保証されてゐるなら、問題は生起せず、したがって考へるどころか、そもそも行動をする必要もない。 安穏と暮らして行ければよいのではないのか。もしもそれが可能ならば、どうしてそれを取らない理由があるだらうか。 探してみても、さうした理由は見つかりさうにない。 棚に上げた現実をここで戻せば、つまり、ほとんどの「問題」は、求める満足が諸事情により得られない、といふ状況に起因する。問題解決とは、言ひ換へれば、満足に至ることに他ならない。 そもそも満腹の肥えた牛となることが目指されてゐるのであり、実際にさうでないのは、やむを得ない現実の諸条件によって強制された結果に過ぎない。 ところで、もしも上に述べたことが正しいならば、問題とは、欲求充足のために解決されるべき障碍であり、方法とは、解決を導くための手段である、といふことになる。 我々の問題も、そのやうな問題と同質のものなのであらうか。 つづきます

町のお祭り

町の祭りがあって、少しだけ覗いて来ました。 この町に越してきて初めてのイベントで、恐る恐るコミュニティセンターという建物に入ると、玄関の上り口に緑色のゆるキャラがお出迎え。愛嬌があるというよりは、奇怪さを感じさせる造形と配色で、子供たちも素通り。町のキャラクターというわけでもなさそうでしたので、いまだに何だったのか謎ですが、役場然とした建築でしたので、雰囲気を柔らげるために置いたものかと察します。 受付があって、催し物の案内など聞けるかなと想像していたのですが、それらしい机も人も見当たらず。仕方なしに置いてあったパンフレットをしばらくじっと読んでみたのですが、どうもよくわかりません。 実は家人に頼まれて、あるゆるキャラがダンスを披露するステージの、写真を撮ってきてほしいということでしたので、重い腰をあげて歩いて来たのです。 ダンスの開始時刻は書いてあるのですが、場所が書いてありません。どこかに掲示があるのかと、あたりを見て回りましたが、やはり時間だけで場所の表記がない。 困ったなあと思っていると、私の前を通り過ぎ、子供連れの家族が数組、階段を上って二階に行きます。これはきっとダンスを見に行くに違いないと当たりをつけ、後についていくことにします。 二階も人で溢れています。廊下に役場の職員らしき男性が立っていましたので、尋ねてみると、奥の部屋でもうすぐ始まるとのことで、ほっとして部屋に入ると、来賓の挨拶中で、しばらく待っていると、写真コンテストの表彰式が始まり、その後いよいよかと身構えれば、音響機器の故障で演目を入れ替えるとのアナウンスが。 今さら部屋を出るのも具合が悪いので、あぐらをかいたまま子供たちの体操を眺め。うさぎさんとパンダさんとラッコさん・・・? その後、舞台の脇で待機していたゆるキャラが、舞台の中央に登場。曲にあわせて踊り始めます。しばらく見て、よいシャッターチャンスを伺うつもりでしたが、1分とたたない内にまさかの終演。あわてて写真を撮りました。せめてフィギュアスケートと同じくらいの時間は踊ってほしうございました。 写真を見せると、家人は喜んでいました。ゆるキャラ(が好きな)友達にも転送した様子。 晴れ間のさわやかな、冬の残りの一日でした。 窓枠にかかったままの干され柿

あり方といふ問題(三)

食べた後すぐ横になると牛になっちゃうよ、と小さい頃に親から注意された記憶がある。健康上の関心もあったらうが、多分そのこごとの主眼は、怠惰への戒めにあったとおもはれる。かやうな教育的訓戒の目指すところは何であらうか。食べるときは腹八分で留めておき、食べた後はすぐに仕事に取り掛かれるやうにしておく。子供は、身を削って働くことが推奨されてゐるのかなといふ気になる。 昼近くになってやうやく起床して来た子供に、結構な御身分でございますこと、と皮肉を言ふ。これはもちろん、庶民的価値観からすると、誉め言葉ではなく、身分不相応な振舞ひをした子への非難であり、裏を返せば、もっと早く起きて勉強しろ、といふ意趣なのである。 怠惰は悪、勤勉は善なり。 かうした価値基準について、時代的、社会層的、思想的由来は今は問はないでおかう。我々の問題は、満足してゐるといふ肯定的状態は、疑ひなく善いものであるかといふ点にある。 腹十二分まで詰め込んで、太った牛は、容易に動けず、体も心も、まどろみの内に日を終へるだらう。労働はできない。満ち足りた人間は、この牛に似てゐる。 満足はなにか悪いことのやうな気がしてしまふ。お腹いっぱい食べて惰眠をむさぼるより、不満足でゐたとしても、あくせくと他の人々のためになるやうな仕事に精を出し疲れ切って眠る方を選ぶ、いや、選ばないではゐられない。このやうな心持ちは、きはめて容易に想像できる。 現実に、ただめし喰らひとか穀潰しとか高等遊民とか、蔑称として使はれる場面が多いやうにおもふが、さう非難される当の人達は、楽な生活を楽しんでゐるかとおもへば、案外逆に苦しんでゐるもので、事情は様々でも、ままならない状況によりさうした生活を強ひられて送ってゐることが多い。ひときれのパンで飢ゑをまぎらし、身を粉にして働きぼろぼろに疲れ果てた人の方が、到底満腹でないにもかかはらず、なぜかより満ち足りてゐるといふこともある。 かといって、空腹のまま走る馬車馬の生活に、十全の満足を感じてゐるわけでは決してなく、もっと楽な生活を空想するのが常である。生涯遊んで暮らせるだけの金額が手に入った場合でも、同じやうに働き続けるものか、疑はしい。生存といふ最低限の課題をこなしてゐるのみであって、満足してゐるわけではない。 冒頭に述べた訓告に戻らう。怠惰を怖れるのは、怠惰に慣れて

あり方といふ問題(二)

 ~ 前回 のあらすぢ~  満足してゐるのと不満なままでゐるのとどちらがよいだらうか。  所詮豚は豚なのだから、どちらでも大して変りはない。  ならば飢ゑてゐるよりは満たされてゐる方がましといふものだらう。 さて、前回のつづきです。もっとも今部屋の気温が五度ですので、いつまで指がもつか心配、いやもう冷えてゐますが、窓の氷がぬるむのを横目に頑張ることに致しませう。 前回の結論に対しては、以下のやうな反論があるかも知れない。 「豚ならば、さういふ結論でもよいだらう。彼らにとって、最高の目標は食べることであり、その最高の欲求の充足こそが彼らにとっての最大幸福であらうから。しかし、我らは人間であるから、云はばパンだけで事足りるものではなく、もっと何かが必要なのだ。食欲といふのは、人の持つ欲求のほんの一部に過ぎない。その一部を満たしたとしても、それは小さな満足でしかなく、心の空洞は大きく開いたままだ。この空虚を埋める何か、何であれ食物以外のもの、を得ない限り、全体としての満足は得られず、したがって我々は不満なままであり、不幸に留まるのだ。」 豚と人の間に、以上で述べられたほど明確な差があるかは大いに疑問だが、それはさておくとして、たしかに、肉体的欲求の充足のみをもってたれりとする幸福論は、かなり極端であり、生活の実体にもそぐはないやうに思はれる。 実際、食べて満足した人は次に何をするだらう。名誉、富、コミュニケーションといった社会的欲求の解消へと向かふのではないか。言ひ換へれば、満腹してもまだ満足してゐないといふことだ。人の欲望には際限がないと言はれる。社会的要求を満たした後でも、きっとまた別の、精神的な何かが出て来て、人間を駆り立てるに相違ない。 ここで二つの方向が生まれる。ひとつは、豚ならぬ人間が人間として本性的に志向する何かが存在すると考へ、その充足こそが人間の真の幸福であるとする説。もうひとつは、人間に本質などなく、とめどない欲望の流れが続くばかりであるから、その認識に至り、達観することが至善といふ説。 どちらにしても、幸福論の勁さと深みにおいて、その文化の不幸の度合ひが測られるやうで、要するにわかるのは、肉体的にか精神的にか社会的にかはともかく、人間は満足してゐないといふ一点だ。 問題は何なのか。人は飢ゑてゐる。これは実際に

あり方といふ問題(一)

満たされた豚であるのがよいか、満たされない豚であるのがよいか、畢竟かういふ問題でせうか。 満たされた豚は安心し、ぐっすりと眠ってゐます。満たされない方は、飢ゑに苛まれ、何か食べるものを欲して血走った目で奔走してゐます。前者は肥えて落ち着きがあり、後者は痩せ細り時々大声で叫びます。 どちらであるにせよ、様態の違ひが存するのみで、どちらも豚であるといふ点に変りはなし、ならば穏やかでより紳士らしい前者であるのが望ましい、といふことになりさうですが、はて。 そもそも、満足してゐない豚は、満足してゐる豚に成ることを目指してゐるわけですから、両者の違ひは、まだゴールしてゐない途中にあるか、すでに完走し休憩してゐるか、といふ点にあるのでせう。 もしさうならば、どちらの豚であるのがよいか、といふ問ひに答へるのは難しくありません。未完成の作品と完成した作品と、どちらがより好ましいか、といふ選択に似てゐます。お腹がすいてゐる場合、より価値が高いのは、まだ収穫されてゐない麦ではなく、すでに炊きあがった麦飯なのです。 満腹の豚は憩ひ、空腹の豚は愁ふ。 話は単純なのですが、どこかかすかな違和感が生じてゐるやうにおもふのです。気のせゐでせうか。 つづきます

鳩とモーツアルト

W・A・モーツアルトの楽曲について書くことはこれまであまりなかった。『東都百景』のなかでも名指しで登場はしていない。 しかし振り返ってみるに、控えめに言っても、私の人生を狂わせ、道を踏み外させた一因は、彼の作品にあるようにおもう。 家にたった一枚だけあった廉価のモーツアルトのCDを聞いて以来、私の青春は彼の音楽と共にあった。あるときは冷たい涙で枕を濡らし、あるときは鼻をすすりながら奔騰に身を任せた。とても身体的な聞き方であったとおもう。 モーツアルトの音楽が好き、と臆面もなく言う人は、それだけで逡巡なく軽蔑した。演奏会で彼の音楽に拍手喝采を浴びせる聴衆の存在は、青年の目にはきたないものと映った。美しくないものについてはそれ以上考えなかった。若さの特権と言うべきだろう。未熟な青い心は美と善でいっぱいで、他のものに向ける余裕はなかった。 彼の音楽を、自分の捉えるところの彼の旋律を、表現したいとおもい、一時は音楽の道を志した。 しかし、これをもって、つまり、普通の大学を受験しないでピアノの練習ばかりしていたこと、を逸脱と言うのではない。このようなことは、誰の青春にも必ずあるひとコマにすぎない。 ちょうどそのころ、私は鳩と出会った。これも音楽と同じくらい強い陰翳を学生の心に刻んだ。都会のキジバトやドバトたち。ほとんど神の使いと私には思われた。一つの衝撃だった。 そして今、私はもう三十路も半ばを過ぎて、相変わらずさまようている。通学途上に鳩を見て芯から震えていたあの頃と、どこか変わったろうか。 数日前、中年な私は日記にこう書いている。 「鳩の目と空と人は知的生物であるといふこと これら三つが導いてくれるだらう」 驚くべきことではないだろうか。いまだにこの人間は導きを必要としている。 高校時代の日記と今の日記を比べてみたら、同工異曲のよい実例が得られるかもしれない。 私は何も変わっていないのだろうか。それとも、幾分かは前に進んだのだろうか。本質は同じで、意匠がより洗練されたのだろうか。変化せる一。しかし、問題なのはその変わっていない質の方ではないか。 進歩が幻想なのか、停滞が現実なのか、その逆が真なのか、またはこのような設問の仕方自体が問題なのか、悩んでみたが、答えは出ない。 私はこれまで意図的に、という意味は、方法的に

ゆきすすき

さつきまでふつてゐたのに ゆきはもうはれてゐる さつきまできこえてゐた こどものこゑはもうしない せんろぞひのさかみちに すすきがゆれてゐる あさふつたしもが こほりついてゐる さつきまでないてゐた をとこがあしをとめ おもたげなくさを きたいしてみつめる はいせんぞひのさかみちに すすきのほがゆれてゐる こほりついたしもが おもたげにゆれる

ノオト+万年筆=左縦書き ???

以前は気に入った紙に書き捨てることが多うございましたが、昨年末、紙質がまあまあで製本もほどほどにしっかりしたノオトを見つけたのを機に、一枚一枚ばらばらの紙ではなく、まとまった冊子体の媒体に書くようになりました。 十年以上前のことなのですが、その当時外国の小さな街の変哲もない文房具屋で求めて使用していた落書き帳の書き心地、使い心地が忘れられず、同じような紙と製本の手頃な無地のノオトがないものかと、いつも気にかけていました。 それでついに見つけた、というほどではなく、いくつかの不満点はあるのですが、かなり近いものとして、今のノオトを使っています。そういう商品だから仕方ないのですけど、薄くページ番号が振ってあったり、色違いのしおり紐が二本もついていたり、切り離せる行動リストなる用紙が付属していたり、本来の購買者層には受ける仕様も、私には余計なものでしかありません。私が欲しいのは、基本的には、単純で丈夫で開きやすい、A4くらいの大きさのノオトで、以上でも以下でもないのですが、探すとなかなかないもので、試してみると書き心地だったりサイズ感だったりが違うものがほとんど。そんな中では、今のノオトはまあまあで、有難く使わせて頂いております。 それで書いておりますと、インクの滲みが気になります。いえ、紙とペンの相性の問題ではなくて、書いた後に次の行に進むと、まだ乾ききっていない場合は手で押されて文字がつぶれますし、乾いている場合でも、手の汗によってインクがにじんでしまいます。 私は右手でペンを持ちますので、標準的な日本語のつづり方、すなわち、右から左への縦書きですと、書き進めるに応じて、書かれた文字が右手の下に入ることになります。ですから、今までは、当て紙を用意して、右手の下にひく、ということをしていました。しかしこれは、ノオトの場合、段差ができますから、少しばかり鬱陶しいのです。 そこで、ついさきほど、ふと思いついて、左から右へという風に書いてみましたら、悪くありません。読むのも別段難儀でもないように思います。しばらくは左から右へと行を進めていく縦書きを試してみようと思っています。 ただ、日本語の文字の形や書く仕方は、右から左への縦書きという形式の中で、その形式と共に、現在の仕様になっているように感じる時もあり、若干のひっかかりはあるのですが、毛筆ではなく万