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2月, 2015の投稿を表示しています

宣伝文句を考案してみました

こんな宣伝文句はいかがでしょう。 今、「われらの生存はいかなるものであるか」と慨嘆されたあなたへ ――白子柞 『東都百景』―― もし電車の中刷り広告にこのような文句が貼ってあったら、よし買おう、と思いますか。 いやむしろ、不愉快に思われる方が多いのではないでしょうか。 「なに、俺たちの実存はどういうものか、だって?そんなこと、教えてもらわなくとも十二分に知っているよ。息苦しい満員電車に押し込められて毎日通勤、身も心もぼろぼろになるまで働かされて、疲れて帰れば女房の小言、休まる天地はどこにある、ってな馬車馬さ。」 あるいは、こういう方も多いでしょう。

もののかなしさについて

ものがなしい、とでも言ったらよいのであろうか。 昼も半ばを過ぎて、小腹がすいたので、頂いたお菓子をつまんでいると、 言いようもないむなしさに、涙がこぼれそうになる。

散歩随想

さきほど、久しぶりに、近所を散歩して参りました。 昼間の散歩はいつ以来でしょう。 少なくとも今年に入りましてからは初めてのことです。 歩くときは決まって日の落ちた後でございましたから、 今日は見えるものがめづらしく、また奇妙で、 どこかふわりとした感じのまま帰宅しました。 いったい、自分が住んでいるのが、 かようにひなびた、汚らしい所だとは、 普段意識しておりませんでしたので、 意外の光景に少し驚きを感じつつ、辻々を巡りました。

考えるのと考えさせられているのとは違うということについて

道路工事、カラスの声、鳴弦、靴音、お喋り、などを、騒音、雑音と感じることがある。騒がしいと感じるのは不快なものだ。しかし、同時に何か感じるものがある。奥の方にかすかに胸をざわつかせる何かが潜んでいる。 それは不快とは在り様を異にする、違和感といったものだ。快感であれば、おそらく立ち止まることなく過ぎてしまうだろう。不快において、顔をしかめた人が、規則正しく律動させていた足をとめ、じっと聞き耳を立てる。彼は探っているのだ。不快の源を。不快から離れたいがために不快を知ろうとしているのだ。それで彼は気付いた。しげみの向こうにほの見える何かしらざわめきたるものを。それが息をひそめてこちらを伺っているのを。 彼は一度その存在に気づいてしまえばもう忘れて陽気に駆け回ることができない。彼は目をこらす。そして言葉をかけてみる。おまえはなにか、と。こたえは返ってこない。 おそらく問い方を間違えたのだろう。さて、

本を書いた後の苦しみについて

イメージ
『東都百景』を書いていたときは、毎日針の筵(むしろ)に座っているようでしたが、今思いますと、ほんとうに苦しいのは、本を書いている間ではなく、書き終えた後かもしれません。よほどの楽天家でもなければ、本が売れないという現実に心が押しつぶされてしまうでしょう。 勇気を振り絞って語りかけた相手に無視される、という出来事が、毎日毎日繰り返し続くようなものです。もちろん、話しかけるのをやめれば、こちらの心の重荷も軽くはなるのでしょうが、どうしても思いきれず、わかってはいるのに、この身を放り出して、また同じように語りかけてしまうのです。我ながら愚かなものと思います。 話しかける相手を間違えているのでしょうか。たとえば、釣りが趣味の人たちの集まりに出かけて行って、アリストテレスのギリシア語について演説をぶつのと似たことをしているのでしょうか。その集まりの中には一人くらいはギリシア語の専門家がいて、話を聞いてくれるかも分かりませんが、必ず残りの九割から顰蹙を買うことでありましょう。いわゆる、場違いな行為であり、私は空気が読めない、迷惑な奴に他なりますまい。

書くことについて

奇蹟について語る言葉はありふれているが、奇蹟そのものであるような言葉は稀である。人が書きたいと願い、聞きたいと欲するのは、しかし、そういう言葉ではないだろうか。もしそんな言葉がどこかにあったら、それがどんな辺境の未開地であれ、どんな恐ろしい蛮獣の棲む巣窟であれ、行って見たいと思わない人がいるだろうか。そしてもし手に入れることができたら、どんな大金を積まれたとしても、今日の糧にも事欠くありさまであったとしても、手放そうとする者があるだろうか。それこそ他に架け替えようもない宝物ではないか。

最初の読者からの『東都百景』の感想

みなさまこんにちは。まだ寒い日が続きますね。 先日旧友のよしみで拙著を買って頂いた方から、 本の感想を頂いたのですが・・・・・・ 「読めない」というものでした。 文意がわからないとか、理解できないということではなく、 そもそも文字を読むことができない、ということのようです。

著作紹介 東都百景(6)

みなさまこんばんは。 私は前稿で、 自著についての定見を筆者ほどよく備えていない者はない、 という意味のことを述べました。 今回は、もう少しその内実に踏み込んでみましょう。

著作紹介 東都百景(5)

みなさまこんにちは。 今日も冷えますね。 さて、数回にわたり、 拙著『東都百景』の紹介を続けて参りましたが、 いかがでしょう、当作がいったいどのような書物であるか、 想像がおつきになったでありましょうか。 幾分かでも、だいたいこのような著述なのだろうな、 くらいの見当でもつけて頂けたなら、 私としても嬉しいのですが、 結局のところ、直截に言って何の本なのか、 単刀直入に教えてほしい、という感想を抱いた方も、 中にはいらっしゃるかもしれません。

著作紹介 東都百景(4)

あやしうこそ ものくるほしけれ といふのは、 一日中硯(すずり)に向かってゐた方の感想でございますが、 わたくしも机に坐って白紙を前にしてをりますと、 なにやら色々なことが思はれて参ります。 今日はそんな中からひとつ、 皆様に聞いて頂くことに致しませう。 『東都百景』といふ書きものが、 どんな様子で生まれたか、 幾分かでもお伝へできればと思ひます。

「おとづれ」 三 (承前)

彼は仕事をくびになった 慕っていた上役(うわやく)には悩みを打ち明けたが とりあってもらえず 失望したと告げられた 彼は自宅にこもるようになった 同僚や部下の蔑みの視線からは逃れられたが 同じ屋根の下に住まう家族の心配そうな顔を見ると 申し訳ない気持ちでうつむくしかなかった

「おとづれ」 二 (承前)

毎日の仕事に出かけようと ドアのノブに手をかけて いつもするように回そうとしたとき 何かいつもと違うことがおとづれた 彼は遅刻の心配をした 回そうとした手はしかし 回らなかった