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読者への手紙(4)

これまでの、「読者への手紙」 (1) 、 (2) 、 (3) (承前)  詩的言語というのは、今この手紙を書く中で、『東都百景』の特徴を、読者の方にわかりやすく伝えるために、思いついただけの便宜的な概念ですので、普段よく考えているわけではないのですが、もう少し説明を加えてみましょう。  たとえば、私の目前にある机の色ひとつとっても、単に茶色と言って済ませてしまうこともできますが、よく識別する目には単なる茶色に留まらない微妙な色合いが見えてきて、きっと形容するのに困ることになるでしょう。そうして何かしらの言葉で色を創造的に表現したとすれば、それもまた詩的言語と見做されるのでしょうか。いや、どうも違うような気がします。どこか違うのか考えてみますと、ひとつには、切迫性の度合いが挙げられるかと思います。申しましたように、私は始め茶色と言ってそれで済ませようとしました。そして多分それで済むのであります。しかし、済まないものもあるのかもしれません。こちらの適当な片付けに対して抵抗し、反抗すらして来るものがあるとしたら、言葉を使う者はどうなるでしょう。居心地の悪さ、不安を感じないではいられません。現実に生命の危機にあるわけではなく、たかがことばだけのことですのに。始めのうちこそ、力ずくでねじ伏せようとしますが、うまく行かない場合は、きっと長い長い格闘の末に敗北し、打ちひしがれて横たわることでしょう。そうしてさらなる色々なあれこれの末、可哀想なこの人は、不思議な言語を話すことになるのです。  「あ」とも言えない、「い」とも叫べない、そんな窮地に陥って出られない状況において、打開策を一切失い尽くした所で、並べられる文字たち。これこそ、詩的言語と見なし得るのではないでしょうか。  ところが、これだけでは、未だ詩的言語と呼ばれるには値しないように思います。今のところ、恋愛に苦しむ中学生がやむにやまれずノオトに書きなぐるポエムも、立派な詩的言語であるということになってしまいます。別にそのようなポエムの価値を貶めたいのではありません。ただ、やはり詩的言語と称するには、今まで語ってきたのと異なる何かが必要なのです。  それが何なのか、私が語るわけにはいきません。自分はその判定者ではないのです。ただ、それこそが核心であって、それだけが大事なのだと、言うに留めます。私

読者への手紙(3)

(承前)  我々の日常は言語との関わりによって多くを占められています。一人きりで生存を完結させているような方がもしどこかにおられるならともかく、自分以外の人間との関わりなしには、生きて行くことさえままならないのが、人という種族の常でありましょう。他人と会えば挨拶をし、言葉を交わしますし、パソコンを開いて言葉をつづり、読み、聞く、仕事机でも、食事の席でも、就寝するまで、いや夢の中でも、我々は言葉を使っているのです。離れ小島に暮らす人でさえ、朝目が覚めて、「今日はよい天気だ」と心中に思わないではいられないでしょう。柿の味について表現しようとすれば、「柿、おいしい。」「柿がおいしい。」「柿において酸味、渋み、甘味の調和がとれている。」「かき、いい。」などと、幾通りもの仕方が考えられ、その味に応じて最も適切な言葉を選ぶことになります。しかし、たとえば、ある特定の知的前提と処遇においてのみ体験されるような、恐怖の場合はどうでしょう。どういう言葉になるのでしょう。つまり、私は今「恐怖」と書きましたが、それはあまり正確とは言い難く、そもそも、それに応ずる言葉が見当たらない場合にはどうすればよいのでしょうか。  言い得ざるなにものかの現前に際して発せられる言葉の羅列、これをここでは詩的言語と呼ぶことにします。詩的言語というのは、言葉をきれいに配列したものではなく、言葉を創造しようとするものです。既存の語法から発想しているのではありません。すでにある言葉につまったところから、出発しているのです。それは一種の認識です。認識しようとする努力なのです。その結果として、紙面はいわゆる日常使用されている言語のあり方と、かけ離れた惨状を呈することがあります。文法、単語、発音、意味、文字の綴り法に至るまで、日常のそれとは異なる記法になってしまうことがあります。  この種の読み物に慣れていない読者はそこで、この文章は無意味だと判断し、読むのを放棄する、という反応になるのが普通です。しかしこれは最も分かりやすい場合で、つまり、日常言語との乖離が大きいほど、それが詩的なものであることが明瞭になりますので、ある意味では、とても易しいのです。  最も厄介なのは、日常的な記法と見た目にほとんど変わりがない仕方で書かれた詩的言語を読む場合です。そのまま読む分には普通に意味も取れますし、理解もで

読者への手紙(2)

(承前)  本の内容ですが、これは少しだけ特殊なところのある文章かもしれません。書き上げた当初はそう思っていなかったのですが、周りの読者の反応を見るにつけ、思いを改めるようになりました。  そこで、少しでも道しるべになればという願いから、「読者への手紙」というこの小文を草するにあたり、本全体を読み直してみたのです。片手で本を閉じた私は、自分がいかに愚かなことをしようとしていたか、はっきりと感じました。ええ、おそれを忘れた愚か者と呼ばざるを得ません。この書き物に対して何かを語る権利など自分にはないのです。  しかし同時にあらためて悟りました。自分に似た関心や知的背景を持っている方でさえ、この本を投げ出さずに読解するのは難しいだろう。いはんや、爾餘(じよ)の方々をや。  研究、仕事、家事に忙しく、普段あまりこの種のことがらに関心を持つ機会のない方々に対して、何も伝えずいきなりぶ厚い本だけ渡しても、当惑させるばかりでありましょう。その当惑が意味のある当惑ならよいかもしれませんが、ただ読む意欲を阻害するばかりであって、それは可能なら避けられるべきものではないでしょうか。  高機能のドライヤーを説明書抜きで贈呈するようなもの。使い方を知らないまま使えば、その高機能性は、かえって害になることもあるかもしれません。  書き上げた時点で著者の仕事は終わり、という書籍頒布の仕方が大勢でしょうが、この本に関しては、書物の受容について、ある程度、というのは個人としてできる限りという意味ですが、より正当な享受が行われ得るように努めるのが、著作者の責任であるように思っています。私は愚かなのでしょう。一度お読みになりましたら、どうかこの手紙は破り捨てて下さい。  申し上げるまでもないことですが、本の解釈は、読者の裁量でございます。筆者の見解は、唯一絶対の正解ではありません。書いた者にそのような特権はありません。もし著作者が、作品の読み方に関して、正しい答えを示唆するような発言をするなら、彼は自分の分を越えた越権行為を犯していることになります。  おそらく彼は、作品への関わりが一般読者より深い分、自分の方が作品をよく知っているのが当然であるし、なにより他ならぬ自分が作ったものなのだから、作品のことは他の誰よりも自分が一番に知っている、と思っているのでありましょう。