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6月, 2017の投稿を表示しています

雨が降ってきたので傘をさそうとおもった ところが傘はかばんに入っていなかった 家に置き忘れてしまった このままでは濡れてしまう わたしは雨宿りのできる軒先を探した 近くに人家はなかったが幸いなことに 大きなけやきの木があったので 広い枝先をかりることにした 肩についた雨滴を払ひ 空模様を確認する 灰色の雨雲が垂れこめて 晴れ間は望めそうもない 一時の宿りにいかほどの意義があろう わたしはふたたび路上の人となり 散歩を継続することにした すでにあらかた濡れているので より打たれた所で大差はないと判断したのだ 問題はめがねの方で 前がかすんでまったく見えない 拭いてもすぐしたたるから仕様がない 山桜の小路に重い身を運ぶ このままもし倒れたら 死因は何になるのだらう 急性感冒 風邪に急性が認められるかは知らない だが風邪を引いた原因は雨中を歩くといふ決断にあり その断は途切れずに続く雨雲のせいであり そもそも天気の変わりやすいこの季節に 折り畳み傘を忍ばせるのを忘却したわたしのせいだ そしてその愚は生活に対する投げやりな気持ちから生じたものなので 死因は個人的な生に対する不真面目な態度に帰着した わたしはめがねと顔の隙間から前を定めつつ 雨に降られれば去らざるを得ない身の上を案じた 路傍の小さな黄色い花がこちらを見ていた

忘れ難きひと

たとへば限りない悲しみを感じるのは 買ひ物袋をさげた帰り道 腰の曲がったおばあさんが 一歩また一歩前に進む 後ろ姿が目に入る時 わづかに足を緩めて 追ひ越してゆくわたしは 気にしてゐない振りをする 文字を拾ふより 歌に身を震はせるより 画布に嘆じるより 一人の老婆とすれ違ふ方が 時代的な経験だといふのは 特殊なことなのだらうか どうなってゐるのだ われらの信仰は 我々には限界がある いやそれは限界なのだらうか 我々は見えるものしか見ることができない そして私は限られた個体として 我々に見えるものすべてを目にはできない 私は限られた時を与へられ生きるに過ぎない それにもっと大きな難題がある 実際には 見えるものを見ることすら難しい ほとんどの場合 見てゐるのではなく見させられてゐるのであり それがしかも悪意ある他者からの強制ではなく 自分自身の同意と協力を取り付けて行はれる 優しい慈善事業なのだから さあ人の子よ 斯様な晴れ間のもとで お前は絶望することができるか 見えるものを見ることすらままならない ならば一足飛びに さうかつてイカロスが試みたやうに 飛び越えて行けばよいのではないか だが見えるものを超えるための翼は 我々の背には生えてゐない ならばあとから作ればいい かの失敗者の過ちから学んで 溶けない翼を生やさうではないか ああ この希望は誰のものだ 見えないものを見ることはできない 無謬のやうに見えるその命題を支へるのは さういふ気がするといふ個人的事情に過ぎない その当否はおいて さう信じるのが正しい方法の内に含まれてゐるかどうか これは考へることができるかもしれない 今は正解を得ることを目的とすべきではなく 正しく問ひ得てゐるかを吟味すべきなのだらう そしてさうしようとおもふなら くたびれた老婆の忘れがたき後ろ姿を 思ひ返してみるのがよろしからう 与へられたものを受け取る ただそれだけのことも かんたんといふわけではないのだから

蝶の夢

一羽の蝶が野原を舞ふ とびはねる おちる 緩急をつけたステップで 翻弄したかと思へば 羽をひらいて優雅にすべる 自由で 自在で とらへどころがない はられた水面に 遠くの山が 逆さに映る とんでゐたのが 急に降下して 茂みに隠れる 何を探してゐるのだらうか 探しものが見つかったのだらうか そこにあるのか その緑なす草と 色あせた枯れ葉のあひだに 一羽の蝶が野原を舞ふ 長い長いさがしもの どこに隠れてゐるのか いつ見つかるのか そもそもどこかにある物なのか わからない疑問を抱へながら 蝶の体がふわりとはねる la felicita 昨晩入った料理店の メニューに書かれた文字が 頭に浮かんで消える もしそれを探してゐるなら それを知ってゐるといふことになる あるいは それを求めつつ それが何かをもたづねてゐるなら 何のことはない 仕事の手を止めて 疲れた顔を遠くに向ける 年老いた男のやうに 夢を夢と知りつつ見続けて 言葉も情熱も見失ひ 慣れと忘れによって保たれた幸せに 薄いほほゑみを貼りつける そんな街角の風景と そんなに変らないといふことだらう 一羽の蝶が 野原を舞ふ

落日

あかねさす むらさきの 落日に のこり日に もろびとは あしをとめ つないだ手 かたくして 言ひたげな まなざしが ちからなく 声にならない ことば呑み 声にならない うたうたふ かへるにさめた 耳をあづけて あかねさす むらさきの らくじつに しづむ日に 声にならない 声あげようと ひらいた口が ちからなく またとぢて まなざしが なごり日に ただ 問ひかけて