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旧年をふりかえって

前年、2015年は、自分にとってどういう年であったかと、自問してみた。 しかるに、どうも、これといって、確たる答えが出て来ない。 年始め、一月は、『東都百景』の出版に関連する雑務に追われた。 年の終わり、師走は、文学フリマというイベントに参加した。 それはよいのだが、 その間、つまり、一年のほとんどを、私は何をして過ごしていたのだろう。 書きかけの草稿を完成させるべく、机に張り付いたわけでもなければ、 特に思索を深めたということもなく、ありていに言えば、 無為に過ぎ去る時間を、ただ口を開けて呆然と見送った。 今振り返る私の目に映るのは、充実した忙しい日々ではなく、 空虚で空疎な、空白の歳月なのである。 そして、年の明けた今日、私は自らに尋ねざるをえない。 それに何の意味があったのか。去年は自分にとってどんな価値ある年だったのか。 このような問いかけに、私の望むような答えが返ってくるはずもない。 意味や価値の否定、それこそが、空虚ということの意味なのだから。 けれど私はあきらめないで続ける。 それでは、そのむなしい日々は、自分にとって、何の意味もない、まったくの無駄な時間であったのか。いや、無意味という仕方において、きっと何らかの働きがあるのではなかろうか。何の意味もない存在など、あるはずもないのだから。 このような自我の執拗さは、空回りするばかりで、空虚に対していくら拳をあげようと、手は空を切るばかりで、手ごたえすらなく、私の発する問いは、何にも受け止められないまま、虚無の中を滑り去って行き、返ってくることがない。 そう、無意味の中に豁然(かつぜん)として大悟し、無の無に開かれるわけでもない。 私は、一年もの間、いったい何者であったのか。 作家であったか、否。 学究者であったか、否。 趣味人であったか、否。 わたしは、人間であったか、・・・・・・。 私は昨年、自己を見失っていたのだろうか。 いや、見失われるべき自己など、たぶん元旦からなかった。 もちろん、社会的存在者として、自分というアイデンティティを構成する要素は常にある。 名前、性別、学歴、地位、国籍、言語、年齢、等々。 去年、私は、それらの集合でしかなかった。 それら皮相的なる事々の奥に