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おもいで

思い出すのは 年少のころ おもちゃの積木で 遊び相手のほほを押したら 鼻血が出て 先生に怒られたこと 思い出すのは 小学生のころ クラスの歌をつくるのに 自分の歌詞が選ばれて 別に何とも思はなかったが 出来上がった歌の歌詞には 手が加えられていて はるかによいものになっていたので 大人ってすごいと 感心したこと 思い出すのは 遊んでいた友達が 他校の生徒になぐられて 咳き込んで倒れたすぐとなりで 何も出来ずに固まって 立っていたこと 思い出すのは 学生時代 初めて書いた手紙を胸に 来ない人を いつまでも待っていたこと 思い出すのは 母親の笑い顔 父親の呼ぶ声 従兄弟のいたずら 必ずお年玉を用意してくれてた 親戚のおじさん けれどわたしが思い出したかったのは これら平凡で穏やかな思い出ではなく 道のそこかしこで 目にしてきたもの 胸を締め付け目を泳がせて おそらくは人生を少し狂わせた 忘れ難きものもの むしろより平凡なのかもしれないが それはあるときは灰色の羽もつ鳩であり あるときは異臭を放って過ぎる中年婦人であり 生は明るいという感想がいかようにしても不可能にされて 暗いとめどない不幸を啓示され 一瞬にして満たされ説得され 反論する意思のかけらすら残されないまま わたしは目を開いて それらふとしたかたまりが 去って行く後ろ姿を 見つめ続けるしかない 思い出すのは 不愉快なこと 愉快なこと 嫌いなひと 好きなひと 思い出すのは 記憶 痛み これでよかったのかという 漠とした うたがい 思い出すのは どんなこと 思い出すのは 音楽 どんな 思い出すのは おもいだすのは

偽の預言者の見分け方

みなさま、ごきげんよろしく。 もう春は目前だと言いますのに、棚の上の温度計は10度を指しております。 事情がありまして、暖房が使えませんので、コートを着たままキーボードを叩いております。 ご心配なく。電気を止められているわけではございません。 さて、 オオカミは羊の皮をかぶってやってくる、と我々は聞いておりますが、 羊の皮をかぶったオオカミと本物の羊を、どうやって識別したらよいか、 その見分け方も教わったという方は、おそらく多くはないのではないでしょうか。 実際、オオカミが来たら羊は逃げることができます。 しかし、羊を装って来るオオカミに対しては、目と鼻の先に来るまで、 気づくことができませんので、容易に餌食となってしまうことでしょう。 オオカミは、賢いのです。そのままの姿で近づけば目的を達せられないと知り、 自らの本当の姿を隠して仮の衣装をまとい、羊たちを騙す程度には。 一方、羊はどうでしょう。賢くないのでしょうか。 オオカミの変装を見破るほどの眼力や工夫は、羊には望めないのでしょうか。 騙されないためには、蛇の賢さを持たなければならない。などと言われましても、 ではどうすれば賢くなれるのか、その方法がわからないのです。 多分賢い人はわかっているのでしょう、しかし、まだ賢さを身につけていない人には、 わからないのです。賢くないからです。 経験の問題でしょうか。何度も騙されてはじめて、知恵が身に付くのでしょうか。 たしかに、そうやって学習して行くのは、ある意味自然な成り行きです。 騙されたときにはじめて、自分が騙されたことがわかります。それまでは、 騙されていると気づいていなかったのですから、騙されない仕方を学ぼうとも思えません。 しかし、羊の例で言いますと、騙されたことに気づくときというのは、 オオカミが羊の皮を放り出したとき、すなわち、羊にとっては、 自らが食べられる瞬間です。 自らの命を失ってはじめて、自分が騙されていたことに気づくのです。 これは手痛すぎる教訓です。 しかし、間一髪で逃げ出すことのできた羊も、いるかもしれません。 その羊は、幸運に感謝しつつ、次こそは騙されまい、と固く誓うことでしょう。 ただ、それはオオカミにとっても同様で、逃がしてしまったことを悔やみつつ