二月二十一日 思考

 
 考へるといふより考へさせられてゐる方が普段は多い。いや、さう言ふなら、考へるといふのは即ち考へさせられてゐるといふ行ひなのかも知れない。思考は別に高尚なものでなく、飲み食ひ寝る一環であり、生存のための作業だ。問題は、自らは考へてゐるとおもってゐる点だ。そのやうに考へさせられてゐるのが実状なのに、自分では考へてゐるとおもってゐる。

 住み込みで働くといふのは私が選択した職といふよりは、もうそのくらゐしか自分の採用され得る仕事がなかったからに過ぎない。

 何とか希望を見出さうと、頭が必死に回転を始める。みじめであっても、希望の残るみじめさと、将来の見通しの立たない単なるみじめは違ふ。私はみじめだ。どちらのみじめか、言ふまでもないだらう。他にどう捉へられるだらうか。馬車に繋がれた馬と同じだ。さんざん酷使され疲れ果て、動けなくなるまで働かされて、体が弱れば近くの森に捨てられて、孤独に死にゆく運命の、どこに救ひを見出だせるだらう。

 本当に私はどうすればいい。現状はひどい。自由もない。この状況をひどいと感じなくなるか、何らかの救ひを見つけるか、あるいはひと思ひに命を―――。



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