三月十日 もちもの


目覚ましの音に
まぶたをあける
疲れて重い体は
今からはもう
自分以外の
誰かのもの

まどろみに見る
幻影だけが
ただひとつ残された
わたしのもちもの

けれどそんな小さなお守りすらも
やがては奪はれてしまふのだらう
形のないものさへ取り上げられて
そのときわたしの手元には
いったい何が残るのだらう
握りしめたこぶしをひらいたら
手のひらには何がのってゐるだらう
もしも何かがあったなら
それがどのやうな何かであれ
きっとびっくりするだらう
そしてかなしいことに
疑はざるをえないだらう
本当は何もない所に
自分でこしらへた
まぼろしなのではないかと

制服に着替へて
劇場に向かひ
下町の路地を急ぐ
エレベーターのボタンを押して
数字の近付くのを
ほぼあきらめの目で見てゐると
すぐとなりに一匹の蚊が
とまってゐるのが映る
肌をかくさうと
そでをひっぱり腕をおほふ
蚊は動かない
目を離せぬまま
あいたとびらに乗り込んで
ボタンを指で押し
ドアがしまるのを
無言でまつ

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