三月十四日 ひとつき


これは日記なのだ
なにか目新しいことを探したり案出したりする書き物ではない
たんたんと日々の葉をかさねてつづるだけがふさはしい
遠国の僻地に一人で来て労働に身を沈めてより一月が経たうとしてゐる
新しい刺戟も繰り返されるうちにだんだん体の感覚は鈍く反応は少なくなってゆく
同じことがわたしの身にも起こってゐるのかもしれない
屈辱と涙不安と絶望恐れと怒りははじめの先鋭を失ひ
ころがる石のやうに角が取れて今やまるみを帯びつつある
そのうち力一杯握りしめても痛くないどころか
気持ち良いかたちに落ち着いてしまふのだらう
戦いも毎日のこととなれば緊張を失ひ日常と化す
かうして知られぬ間に完璧な労働者がまた一人この社会に加はるのだ
不自然さや違和感はもうどこにも見つからない
彼にたづねてみてもきっと思ひ出せないだらうし
思ひ出せたとしても若かりし頃の青臭い自分の姿を恥ぢるのみだらう
わたしもまた忘れてゆくのだらうか
感情がすりへってゆくのだらうか
日の届かない場所で顔も上げずに黙々と手を動かす働き蟻の一匹に
わたしもなりつつあるのだらうか
そのときわたしの倫理は世界はどういふ姿に構成されてゐるのだらう
蟻は満足なのだらうか
それともたんに麻痺してゐるだけだらうか
ある程度の障碍に突き当たると乗り越えようとする人も
巨大すぎる不幸の壁を前にすると
抵抗する気力をなくしあきらめの境地に至るものなのかもしれない
自分ではどうしやうもないことがあるといふ認識を与へられた人は
もはや騒がずおとなしくなるのかもしれない
この監獄からは出られないと悟った囚人のやうに


春めいて 花は聲なき 靴の下



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