三月九日 望み


自分は悲惨な状況に置かれてゐる自分は不幸だ
となげく若者にある老人がかう言ったとしよう
不幸なる同胞よ
わたしも君のために君の不幸をなげきたい
しかしおそらく君の不幸は
君のおもってゐる所にはないのだ
なるほど君が不幸であるといふのは本当のことかも知れない
君は君自身がその原因であることを知らないのだからね
さうだよ君自らが不幸を作り出してゐるのだ
不幸といふ色めがねをかけて見るから
世界は不幸色に染まって映るのだ
逆に君自身が原因とわかるなら
めがねを外すこともできるのではないかね
君は本当に不幸なのだらうか
何も他人と比較する必要などない
まづは今かけてゐるめがねに注意を向けて
虚心に世界を眺めてみたらどうかね
君は本当に不幸なのかもしれないし
本当には不幸ではないのかもしれない
それはどちらでもかまはないのだ
どうしやうもないことだからねただ
今の君はたんに自分で用意した幻を見て
それに対して反応してゐるに過ぎない
少なくともこの見せかけの不幸からは君の力で
抜け出すことができるし
抜け出したいと君は望むのではないだらうか

かう言はれた青年は自分を見つめ直し
気付きを得て成長するといふ物語だ
この類の言説は巷間に流布してをり
様々な変奏が繰り返されてゐる所からするに
なかなかに人気があるやうだ
不思議なのは
逆の言説を耳にする機会がより少ないことだ
すなはち幸福にも同じことが当てはまるのであって
しあはせも自らの生み出す幻想に過ぎないのに
ばら色のめがねは宝物のやうに大事にされて
それを外して素直に世界を見よとは
あまり声高には語られない
しあはせな人間はそっとして置いて
触れないでゐてあげようといふ気づかひが感じられる
やさしい世界だ
だから
持つ者は天国へは行けないのだ

失敗したのは失敗を望んだから
成功したのは成功を望んだから
不幸なのは不幸を望んだから
幸福なのは幸福を望んだから
たしかに公園で遊ぶあの童児が
あめ玉をなめてゐるのは
彼がさう望んだからにちがひない
そして
彼が生まれたのは誕生を望んだからだし
生きてゐるのは生きたいと望んだからだし
存在してゐるのはかくあれと望んだからにはちがひない

まあともかくどうでもよろしい
問題は
わたしがどれくらゐの大きさの不幸を望んだかだ
その広さと深さを測ることで
わたしの抱へることがらのあり様も
見当がつくだらう

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