著作紹介 東都百景(4)


あやしうこそ

ものくるほしけれ

といふのは、

一日中硯(すずり)に向かってゐた方の感想でございますが、

わたくしも机に坐って白紙を前にしてをりますと、

なにやら色々なことが思はれて参ります。


今日はそんな中からひとつ、

皆様に聞いて頂くことに致しませう。

『東都百景』といふ書きものが、

どんな様子で生まれたか、

幾分かでもお伝へできればと思ひます。


まづ第一に、もの書く人をおとなふのは、

考へて書かうとするのは下とすべき、

といふ感覚でございませう。


もちろん、頭と体を動員して書くわけでございますが、

あらかじめこちらで材料とその構成、方法を用意して、

筋書き通りに固めて行くのは、

たとへすばらしく面白い内容に仕上がったとしましても、

下作とみなすべきものでございまして、

私はそのやうなものには目を通したくございませんし、

自分がその類(たぐひ)を著すのを、

たいそうつまらないことと思ふでせう。


気持ちと致しましては、

自分が考へるといふよりは、

ことばをして考へせしめねばならない、

といふことでございます。

作品の可否の基準は、

そこだけに求められるべきなのでございます。



さて、以上の様にむなしい思ひをもて余してをりますと、

第二に思はれますのは、

実に様々な所を去らなければならない、

といふことでございます。


私欲とか、仕事とか、関心とか、人間とか、

数へ上げればきりがございますまい。


中でも、口語、とでも申しますか、

会話で普段使はれてゐる言葉、

これにはしばしの別れを告げねばなりません。

と申しますのは、

別に口語自体が悪いといふのではないのです。

さうではなくて、

口語に慣れて無自覚に癒着してしまってゐる、

自分が問題なのでございます。



以上の様な思ひは、第三に、

次の様に続くことでせう。

「書くといふのは、実際の所、共同作業なのである。

筆者と文章との。ただし、主は文で、従は人である。」

このやうな識見を保持してゐる間は、

書くのは極度の苦しみを伴なひます。

自分を殺して他を生かさうとするのですから、

つらくて当然でせう。

努力して書き続けようと頑張るのでございますが、

長くは続きません。



それで次の第四の段階に至ります。

つひに耐へられず、

疲れて机より立ち上がり、

無感動に置かれた紙をながめてをりますと、

そちらが本体であるやうな気がして参ります。

主たる文に、書き手が仕へる、

という料簡(りょうけん)ではなく、

向かふの方こそが本体たる自分に思へます。

紙上の文(あや)がわたくしである、

そんな風に思へて参ります。



この先もおそらく続きがあるのでせうが、

ここで留めておきませう。



さて、皆様、どのやうにお思ひになられたでせうか。

わたくし自身は、苦しみまぎれの幻想とも、

落ちた所のあきらめとも、思ってをりますが。

いづれに致しましても、

真面目に語るやうなものではございませんね。



最後にもうひと度、引いて終りに致しませう。

お読み頂きまして有難うございます。

またあそびにいらっしゃって下さい。




   つれづれなるままに日暮らしすずりに向かひて

   心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば

   あやしうこそものぐるほしけれ (『徒然草』)




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