三月一日 音 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 3月 13, 2019 とりの聲(こゑ)がする からすが鳴き交はし すずめがささやく とりの聲がする 雨だれの音がする 窓枠にあたり 道路にはねて 街路樹にそそぐ 雨だれの音がする 車の音がする 少しづつ大きくなり 少しづつ小さくなる 車の走る音がする 冷蔵庫の音がする 重奏低音に 棚板の揺れる音が たまにまざる 冷蔵庫の音がする 息を吸い込む音がする 息を吐き出す音がする つばを飲みこむ音がする 服のこすれる音がする からすがないて 車が通り 雨がそそいで 音がする 音がする リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
二月二十四日 ねえ・・・ 3月 08, 2019 ねえパパ この窮状をわたしは 誰に訴へたらよいのかしら パパに言っても仕方ないことくらゐわかってゐてよ だって同じ人間ですもの お互ひの惨状を目にして 相憐れむのがせいいっぱいですもの あるいは背くらべをはじめて 俺はあいつより金を持ってるとか 地位が高いとか 力があるとか 美しいとか 健康だとか 頭が良いとか 人より優れてゐるからまだましだなどと 自分に思ひこませて 自分の尊厳を 自分の幸福を かたくなに守らうとする そんなあはれな人間の 仲間内ですもの ねえ わたしは どうすればいいのかしら 誰にたづねたら教へてくれるのかしら ええ今すぐに救ってくれとは もう言はないわ ただ暗に示してくれるだけでも満足なの 終はりの見えないこの道の終点に いつかたどりつくことができるのかと 続きを読む
あり方といふ問題(一) 2月 05, 2017 満たされた豚であるのがよいか、満たされない豚であるのがよいか、畢竟かういふ問題でせうか。 満たされた豚は安心し、ぐっすりと眠ってゐます。満たされない方は、飢ゑに苛まれ、何か食べるものを欲して血走った目で奔走してゐます。前者は肥えて落ち着きがあり、後者は痩せ細り時々大声で叫びます。 どちらであるにせよ、様態の違ひが存するのみで、どちらも豚であるといふ点に変りはなし、ならば穏やかでより紳士らしい前者であるのが望ましい、といふことになりさうですが、はて。 そもそも、満足してゐない豚は、満足してゐる豚に成ることを目指してゐるわけですから、両者の違ひは、まだゴールしてゐない途中にあるか、すでに完走し休憩してゐるか、といふ点にあるのでせう。 もしさうならば、どちらの豚であるのがよいか、といふ問ひに答へるのは難しくありません。未完成の作品と完成した作品と、どちらがより好ましいか、といふ選択に似てゐます。お腹がすいてゐる場合、より価値が高いのは、まだ収穫されてゐない麦ではなく、すでに炊きあがった麦飯なのです。 満腹の豚は憩ひ、空腹の豚は愁ふ。 話は単純なのですが、どこかかすかな違和感が生じてゐるやうにおもふのです。気のせゐでせうか。 つづきます 続きを読む
読者への手紙(7) 10月 06, 2016 これまでの、「読者への手紙」 (1) ~ (6) (承前) この本は忠実な記録です。実験対象を見つめて客観的に記述する学生の素朴な態度と変わりません。唯一違うのは、実験対象が自分でもあるということです。観察者と対象が同一なのです。私は歌を歌ったのではありません。かわいた散文で記録しようとしただけです。これは表面だけを見る観察眼にとっては、現代の自由詩と片づけられるかもしれませんが、実質は、きわめて散文的なのです。 この、散文と韻文の錯綜、という点も、この著作のひとつの特徴かもしれません。散文的なるものと韻文的なるものとが交錯し、変容していく様が、文藻となって現れて行きます。記述者の態度に、韻文散文の別があるわけではなく、事柄に沿う中で、自然とそのようになったということです。 この本の中心たる、なにか、は知られていません。何かについて書くのではないのです。その何かは、自分の外にあって、肉眼で観察可能な何かではありません。自分の内にあるのでもありません。内にあるものを、ひるがえされた眼差しでもって省察する、のではありません。内でも外でもない、それは自分の一部、なのであり、自分の根元なのであり、つまり、自分なのであります。そこを問い、そこを見ようと思うのならば、おそらく方法的議論が必要になるでしょう。しかし、方法について考えるのも、自分なのです。私は、そのどこまで先回りしてもその先端を追い詰めることができない、そんな先回りを延々と繰り返しながら、このような考えというか、状態に至ったのであります。それは、まづ何も考えないこと、まづ何も企図しないこと、まづ生活をしないこと、まづあらゆる思いを放擲すること、です。本を書こうという意図すらも当然捨てられるべきものです。捨てるという行為も捨てなければなりません。捨てるという行為を選択するのは、これはひとつの方法に違いありません。よって、人為的な方法はすべて捨てられねばなりません。捨てることを捨てる。しかし、これもまた永遠の循環に陥ります。捨てることを捨てるなら、やはりそれはまだ捨てていることに変わりはないのです。ここにおいて、実は、捨てることと、その正反対の、しがみつくこと、得ること、保持すること、が接近を始めます。反対の極端が実は惑星の輪のようにつながっていて、じつは一番遠いところが一番近いところ... 続きを読む
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