三月四日 こども


ある日わたしの袖をひく者があった
小さな子どもだった
ぼくどなたどうしたの
わたしはたづねた
子どもは目をうるませた
覚えてないの
忘れちゃったんだぼくのこと
わたしはその子をよく見てみる
昔見たことがあるやうな気もして
けれど面影はぼんやりとして
わたしは記憶をひっくり返してみたが
おもひ当たる人物はなかった
わたしはつとめてやさしく言った
うんごめんね
ちょっとよく覚えてないんだ
どこかで会ったかな
するとその子はほほゑんだ
そして小さな声でこたへた
昔会ったことがあるし
さっきも今も会ってゐるよ
わたしはさうなんだねとこたへた
何か用事があるのかな
ほんとに覚えてないんだね
その子は目をふせた
仕方ないことだけど
どんなものにせよ
忘れられるといふのは
よろこばしいと同時に
うらさびしいものだね
わたしはその子を見つめた
けれどやはり何も思ひ出せなかった
よいのだよ
その子はなぐさめるやうに言った
ぼくのことなんか覚えてなくたって
むしろぼくは嬉しいんだ
あなたがぼくを忘れてくれて
あなたはもう振り返らなくてよいのだよ
ぼくは心から
あなたの未来にさちあれかしと願ふよ
ありがたう
ほんとにごめんね
最近忙しくて
考へることも多くてね
いろんなことに
あまりかまってゐられないんだ
もし本当に君のことを
忘れてしまってゐるのだとしたら
わたしはずいぶん失礼な奴じゃないかい
なのに君はわたしをゆるしてくれるどころか
幸運まで祈ってくれるとは
よくできた子なんだね君は
わたしがさう言ふと
その子は仕方ないからとくり返した
さやうなら
次に会ふのが
いつになるかわからないけど
またどこかで会ったら
その時はぼくのこと
ちゃんと覚えてゐてね
わたしは約束すると誓った
子どもは笑ってつぶやいた
前に会ったときも
同じことを言ってゐたよ
それから今までずいぶんたったが
あの子どもに二度と会ふことはなかった


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