五月三十日 一本の鍵


便宜的に大きな歴史と小さな歴史があるとして
大きな歴史は小さな歴史からの類推によってのみ知られる
歴史を学ぶとは無から有をつくることではないし
より賢くなるやうなことでもない
歴史は歴史をすでに知る者にしか知られ得ない
歴史はいつも発見されるのみで
目の見える範囲でしか映らない
現に知られてゐるものが
現に知られてゐる仕方で
見出されるのが
歴史の学びであって
新しいことといふよりそれは追認であり再発見に過ぎない

さて厳密な言論の到来する前に
小さな歴史についておもひをめぐらせてみよう
人が必ずたどる
そんな筋道はあるだらうか
たとへば死はどうか
死のあらはれ方は常に同じか
またその問題の乗り越へ方も
人は同一の道を通って成長変化するのか
至る所も皆同じなのか
時も場も異なり得るから判断できないが
わたしはわたしの中で唯一の道に至れるやうになるはず
夾雑物や雑多なうはずみを抜けた先に
確からしい道が見えるだらう
それが死なのか死といふ問題なのかといふことだ

人はといふかわたしはおもふよりずっと単純なのかもしれない
複雑さうに見えるし手に負へないやうに見えて
小さな一本の鍵で開かれる堅固な城門なのかもしれない
正面から突撃しても喧騒の中玉砕するだけだが
その鍵のありかさへわかればすむのかもしれない

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