Kindle版 『東都百景 頒布版(二)』 筆者による内容紹介

概要:

『東都百景』全体を五つに分けて、逐次Kindle版として、お届けしていますが、今回ダウンロード可能となりましたのは、二番目の部分、二十一から四十景までを収めたものとなります。


文字表記:

文字づかいや漢字につきましては、書籍版から変更してあります。
漢字については、技術的な問題がありまして、Kindleでの画面表示ができない字体などは、適宜置き換えてあります。また、仮名につきましては、大体の部分で、いわゆる現代かなづかいを採用しています。
これは読みやすさを考慮してのことです。文字の問題で読者がはじめからつまづくのは、筆者の本意とすることではありません。文字の問題はけして字面だけの表面的なものにはとどまりませんが、このKindle版で慣れて頂き、さらに興味をお持ちになる場合にのみ、書籍版へとお進み下さればよろしいかと思います。
もっとも、書籍版もすべてが旧かなで記されているわけではありません。そのあたりの按配は、筆者が工夫したものですので、書籍版ではお楽しみ頂けると思います。


内容:

頒布版(一)から続いて、ゆっくりと進んで行きます。
この作品の中心近くにあって影に潜んでいる何ものかが、少しづつ、その存在を示し始めます。ここからの解答は、抜け道は、脱出口は、希望のあかりは、まだ紙面には感じ取られません。いや、どうでしょうか。そもそも、それは希望でふさげるような傷口ではないのでしょう。いや、そういうものである可能性もあるかも知れませんが、そのような無粋な振る舞いは、まだ筆には見られません。

今回、『東都百景』を読み直して、あらためて思いましたが、この作品の最初と最後で、何か変化は認められるでしょうか。

歳をとった、とか、思慮深くなった、とか、暗くなった、とか、明るくなった、とか、そういう言葉で表現され得る変化ではなく、作品の中で綴られた言葉の流れによってしか変化し得なかったような、他のどんな描写言語でも記述できないような、そういった変化のことです。

もっと言えば、何か技術を学んでその分野において進歩したとか退歩したとかいうことではなく、筆者自身の存在の変化、を問題にしたいのでもありません。学習の可能性についてはそれはそれで問題とするに値する事柄ではありますが、これは書き手自身の成長物語ではないのです。書き手は主題にはなり得ません。なり得るとしたら、書く者を通して何かより大きな、それでいてただ単に茫漠とした何かなのではなく、何よりもはっきりと厳然としている、何かしら存在するもの、それこその変化が、もしあり得るのだとしたら、この作品全体に現れているのではないかと思ったのです。

今回収録の、二十一から四十までの箇所では、ずいぶん情動的な部分もありますが、表面上は割合平静に進んで行きます。

といってもその平静さは、内部に非常ななにか言い得ないかたまりを含んだもので、表面に現れたいわば目に見えることばは、隠されて見えないものの、屈折した現れとなっているように感じます。

別に個人的な疾患を抱えているわけではありません。筆者に限らず誰しもそうなのだと思いますが、一見健常に見える人でも、内側をもし覗き込む穴があったとしたら、覗き込んだ者はあまりの深さに目がくらんでしまうでしょう。その暗さは誰か個人に特有の個性などではなく、それを通して人が人であり得るような、そんなぬかるみなのです。

今回の部分は、その穴の一つを読者に提供するものでもあるかもしれません。

「暗い」と言いましたが、第二十八景では、こんなふうに述べている所があります。

「・・・ひたひたと包み込んで來(く)る闇
小さな松明(たいまつ)をばたばた振って
つまづいて轉(ころ)んでも骨がおれても
匍(は)ってでも逃げようとする
結局逃げられっこないのに
・・・(中略)・・・
今思うに
闇だと思っていたこれは
まじりけのない
ただの光だったのかもしれない・・・」

つまるところ、『東都百景』という作品は、なにかひとつのもの、ひとつのなにかおそろしいもの、ひとつのなにかいいがたいもの、ひとつのなにかとらえがたいもの、ひとつのなにかよりそうもの、ひとつのなにか、あるもの、をその核心に近い所に持っているように思います。

そこに向き直ろうとした、ある特殊な時代の人間の身に起こった、体験記のような趣で読むこともできるかもしれません。もっとも、それは観光旅行の旅日記とは異ならざるを得ず、その相手にするものが名所旧跡ではなかったため、その記述もそれに応じて、歌か描写か悲鳴か呟きか、よくわからぬものになっています。


さて、歩みは進んでいるのでしょうか、それとも受けた傷の痛みに耐えかねて、立ち止まって泣いているのでしょうか。気になる方は、どうぞ、ご自身の目でお確かめ下さい。説明申し上げてそれで理解され得る主題ならば、喜んでその労も執りましょうが、もしそういうものが主題であったのならば、そもそもこのような書物が生まれることもなかったでありましょう。筆者も含めて、一人ひとりが自分自身の心に問いかける他ないのです。


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