作者と作品の間の距離

最近、本に対する弁明を求められる機会が増えると共に、自分の態度にも変化が現れてきました。以前は、知らないものは知りませんので、その通りに知らないと答えていたのですが、もう少し言葉を尽くしてもよいのかもしれないと思い始めています。

以前は、自分の書いた文章について、片言隻句でも洩らすまいと、固く心に決めていました。筆者としての自分の仕事は、本を上梓した時に、もうすでに尽きているのだから、この上なにか喋ることは、非常に美しくないことだ、と感じていました。実際、執筆者としての仕事は、作品を書き終えた瞬間に終わるのですから、脱稿後の書き手はもはや作者でも何でもない、ただのひと、なのです。そんなただのひとが、自分が書いたものだからと笠に着てあれこれと口を出すのは、とても愚かしい振る舞いに違いありません。

筆者という立場からの答えは、今も昔も変わっていないのです。沈黙を保つ他はありません。しかし、書き終えて、時間が経つ内に、自分と本との距離も開いて行き、いわば、読者の一人として自著に対することができるようになって来たと感じています。

どうも、時間の経過によって生じる作品との距離、というものがあるようなのです。

始めは癒着して一つにくっついていた書き手と書かれた物とが、少しづつ剥がれるように分かれて行き、お互いがお互いのことを自分とは違うものとして意識し始める、そんなことが起こるようです。このまま時が経てば、やがてお互いに手の届かぬ距離まで間があいてしまうのでしょうか。それとも、様々な交錯の末に、二つのものがそれぞれの独自性を失うことなく、一つにつながり合って落ち着く、そんな風になるのでしょうか。今はまだ想像できません。

自分の書いた著書を、一定の距離を置いた一人の読者として読むことができる、というのは、考えてみればなかなか不思議な体験です。少なくとも、書いた当時、あるいは書き終えた後の一、二年は、想像できませんでした。

あらためて自分の書いたものを読んでみた感想は、前回の記事(「筆者による内容紹介」)に少しだけ述べておきました。

よい書き手が常によい読み手でもあれば、話しは簡単なのでしょうが、どうもあまり関係がないようです。

書くことと読むことはまるで異なる運動なのですね。

書き手と書かれたものとの間に空白が、つまり余裕が生まれ、書いた者が書かれた跡に視線を向けるとき、その目は多分、かつてひたすら白紙を見つめていた目とは異なる目なのです。

様々な事情がありますが、ともかく、作者として関わるのではなくて、読者として付き合う道も、開けてきたのだと思います。最高の読み手にはなれなくとも、せめてまっとうな読み手ではありたいものです。


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