則天去私という生活感情について

則天去私(てんにのっとりて、わたくしをさる)は思想として捉えますと実に陳腐なものです。しかし、金之助さんの生活を思い合わせてみますと実に人間らしいお覚悟と思われて参ります。

もっとも、陳腐に見えるということ自体はその思想の真実性とは関係のないことです。何らかの思想というものが、人の生と遊離して一人歩きし始める前に、ある特殊な個人の生存の上で、到達され掴まれ、密接な関わりの中で、血の通ったものとして生きて働く、そんな現場を、氏の仕事に思いを寄せます者は、目の当りにする心地がするものです。

誰でも洗いものをしていてお皿を割ってしまった経験があるでしょう。特に人から指示されなくても、二枚三枚と割るうちに、どのように扱えば割らないで済むか、自然と分かってくるものです。天に則りて云々のお言葉も同じこと。皿を割りながらたどり着いた、生活の工夫のひとつに他なりますまい。

かのお人の場合は、お皿を割る回数が人よりちょっと多めだったのかもしれません。彼の手が特別不器用だったというよりは、彼のもとに回ってきた皿が、何か扱うのに難儀なものであったということでありましょう。

そして、つい勘違いをしてしまいがちですが、見が成ったといっても、常にそれに即して行動できるようになるわけではありません。皿洗いに習熟すれば、お皿を割る可能性は低くはなるでしょうが、零にはならないでしょう。それと同じことです。洗う限り、割る可能性は残るのです。

割る可能性がなくなるのは、皿洗いをやめたときだけです。彼は皿洗いをやめたでしょうか。やめようとしたけれどやめることができなかった、のかもしれません。誰が好んで面倒な皿洗いをしたがるでしょうか。やらなくて良い仕事ならやらずに済ますのが理(ことわり)でしょう。則天去私という言葉には、やめようとしてやめられず、放ってしまいたくて放って置かれず、失敗を何度も何度も繰り返して、自然と落ち着かざるを得なかった底にあって、ふと見上げた天に、黒い雲のわづかな隙間からまたたいた星の輝きの、その余光が、まだ残っていて、私たちをほのかに照らしているかのようです。


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