冷蔵庫によせて(日記)

冷蔵庫の作動音がする。一定の低い音が継続して空気を震わせる。事情があって吠え声をあげることのできない野生の捕食者がうなっているかのよう。自分の身を供するつもりのないわたくしは、正面に座り込んで相対する。

鼓膜に伝わり音として認識されるというよりは、からだ全体に振動の波が届いて揺すられる。昭和の終わり頃に各家庭に流行した、電動マッサージ機を全身に遠くから当てられている感。こちらは一向ほぐれないし、筋肉に緊張が強いられるばかりで、心地よくない。床の木材を通して伝わる手負いの獣の低いうめき声は、誰か他者へ向けての表現というのでもなく、それでも聞いているわたくしは、不快のなかに何らかの快がないものかと、重低音をかき分ける。

しかし我が身にとりては不愉快なるも、もの知らぬ幼児にあっては遊園地の乗り物くらいは愉快なめづらしいものかもしれぬ。家にいると、常に聞こえてくるのがこの音だから、もはや目新しさのかけらも感じられず。確かにこの生活器具が開発された当時の耳には、新鮮に響いたものかも知れない。変わったのは時代だろうか。冷蔵庫の地位、価値、尊厳は、今やその動作音を騒々しく感じるほどに、軽いものになり果てた。

ただ、遺憾ながら、当時も幼児も、君の機械音はそもそも不快であったかも知れない。あんなにマッサージ機が流行った頃でさえ、冷蔵庫の前に座ったり、あるいは抱きついたりして過ごす者は、おそらく一握りであったろう。冷蔵庫という陳腐な存在が、その先入見が、我々の耳をして不愉快に感じせしめる、というわけでもないかも知れない。

もっとも、これが私一個の妄想に過ぎぬ可能性はある。実は世の多数派はこの低振動を愛好しておるのではなかろうか。その証左に、冷蔵庫から漏れる音はかくも技術の進展著しき時代にも相変わらず残っている。むしろ大切に保存せられている。多分、わたくしは少しく神経症なのだろうとおもう、いつも家にいて聞こえて来るのがこの音ばかりだから、食傷してうんざりしているだけなのだ。

ほら、よく感じてごらん、腹に響く振動も、気持ちよいものだ。二十四時間働いて休憩もなく、おやつも食べずに、我らの食糧を、日々の糧を、懸命に保存している。そうおもえば、どんな恩知らずだって、ありがたいと感じるだろうし、そう感じるなら、冷蔵庫の騒音も、妙なる楽音となって、家にいる人を分け隔てなく幸せにするだろう。

そうして、今このとき、冷蔵庫の音がやみ、わたくしの耳は、鳥籠から解き放たれた鳴禽のごとく、静かに広がる大空に飛び出して、与えられた自由を享受し喜び満喫する。今まで遮られて聞こえなかった仲間のさえずりが届いて、小さき鳥は羽震わせて声をかわす。


2015年3月18日

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