「爲人(ひとのためにす)」をめぐって

今朝ふとんの中で思いましたること、ここに記し置きます。

子曰 古之學者爲己 今之學者爲人

とは、よく引かれる一節ではありますが、大体次のように解釈されるのが通例です。

「先生が云われることには、ふりし世(聖賢の時代)の学者は自分のために学問に励んだものだ、一方今の学者は人に知られるための手段として学問にいそしんでいる。」

要するに、勉強する動機、目的について、昔と今とで違いがあると述べているわけです。昔、というのはつまり孔子の理想が仮託された今ならざるかつてという意味ですが、古きよき時代には、勉強はまづ自分自身の身を修めるためのものであった。しかし、最近の人々は、官職登用のための方途として学びをしている。まことに嘆かわしい、ということです。

「為人」という字句の解釈は、たとえば、『近思録』には、

古之學者爲己 欲得之於己也 今之學者爲人 欲見知於人也

とあり、人の間で声望をあげることを望んで(学問をする)、という意味で読まれているのがわかります。

ですが、「為己」を「自分自身のためにする」と読みましたので、その続きでもって進めば、「為人」は「他人のためにする」と読みたくなります。そうすると、この話しの焦点は、少しずれて参ります。すなわち、自分の役に立てるためにするか、人々のお役に立つためにするか、というのが論点になります。

自分のためにする、と言っても、自分の我欲のため、つまり仕官してよりよい地位を得て権力を持ち裕福な偉い成功者になりたい、という風に解しますと、これはどうも孔子が称揚するような学問の仕方とは思えません。

一方、他人のためにする、というのは、我執を捨てて学に徹し、世のため人のために役に立つように、つまり世をうまく治められるように、ひいては人民が安寧に暮らしを送られるように、学問に精進する、という意味に取れば、孔子の志に反するほどのこととは思えません。

ただ、どうして以上のような解釈にならないかと言うと、「古」という語があるからです。古(いにしえ)というのはつまり理想の世でもありますので、「為己」を、自分一個の出世欲のために、と読むのはおかしいわけです。

当時の時代状況に即してみても、おそらく『近思録』に代表される読みが妥当なのだと思います。

とは言っても、この箇所には何かひっかかるものが残ります。

今の人にとっては学問は手段に過ぎない、でも本当には学問は自己を修養して行くものだ。孔丘が伝えたかったのは、ただたんに、それだけのことなのでしょうか。

自分のためにする、と、他人のためにする、このような読み下し方は、もう少し何か含意を持っているようにも思われるのです。

もっとも、ここから先は少しばかりテキストを離れる「読解」になってしまうかもしれません。

自分のためにする、他人のためにする、これらがどういう意味かが曖昧です。はっきりさせましょう。

今朝、私の脳裏に浮かびましたのは、その文字の通りの意味においてなのです。人のために学問をするというのは、これは勉学に志す者が落ち入り易い陥穽です。自分の属する共同体、および広く言って世界というものが、その中で暮らす人々にとって、少しでもより過ごしやすいものになることを、本心から願わない学生などいるでしょうか。彼は、ですから、世界のために学問を修めようとするのです。これは普通、善い行いとみなされるものです。

ところが、勉強を続けていると、あるときふと気づくときが来るかもしれません。自分がしているこの学問は、借り物に過ぎないと。

表面的な話をすれば、結果として、人の役に立つことはあるでしょう。けれども、それを目的とした研究は、いつのまにか自分の本来の関心を離れ、土から離れて宙に浮き、いわば根なし草となって、やがて枯れてしまうでしょう。これが、「人のためにす」ということです。

では、自分のためにするというのは、自分の個人的に持っている関心、興味に於いて、その探求を進める、というだけの意味しかないのでしょうか。もしそうだとしたら、別に取り立てて誉めるべきことでもないでしょう。ごく当たり前のあり方だからです。

己、人、そして、役に立つということについて、もっと違う捉え方をしておくべきだと思います。

人の為というのは、己の為を突き詰めていったその先に必ずあるものでなければなりません。おのれを尋窮(じんきゅう)して進んだところに、自分と他人の交わる地点を見つけなければなりません。そしてそれは見つかるはずなのです。見つからないではおれませんでしょう。自分もまた人である限りは。すなわち、そのように進み行く者にしか分からない「自分」と「他人」があるということです。このような仕方で、すなわち可能性に開かれた仕方で、自分を究する道を進むのが、「己のためにす」ということです。

学に志す者が、昔も今も、覚えておかねばならないのは、ですから、文字通り、

古之學者爲己 今之學者爲人 (いにしえの学者はおのれのためにす、今の学者はひとのためにす)

ということなのです。

簡潔な文句は、覚悟のほどの厳しさを映しているかのようです。

人の為にしてしまいがちな自分の学問の仕方への警句と、わたくしは捉えるのでございます。そのような「学」をわたしはしたいとのみ願うのです。


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