「爲人」補足(昨日の日記への参照箇所引用)

昨日の投稿で、以下のように述べた部分について、ひとつだけリファレンスをあげておきます。


「・・・すなわち、自分の役に立てるためにするか、人々のお役に立つためにするか、というのが論点になります。
自分のためにする、と言っても、自分の我欲のため、つまり仕官してよりよい地位を得て権力を持ち裕福な偉い成功者になりたい、という風に解しますと、これはどうも孔子が称揚するような学問の仕方とは思えません。
一方、他人のためにする、というのは、我執を捨てて学に徹し、世のため人のために役に立つように、つまり世をうまく治められるように、ひいては人民が安寧に暮らしを送られるように、学問に精進する、という意味に取れば、孔子の志に反するほどのこととは思えません。」


次に引用するのは、生財と題された一篇の中の文句です。


「小人欲以利己。君子欲以利民。利己者私也。利民者公也。公者榮。私者亡。」


小人はもっておのれを利せんと欲し、君子はもって民を利せんと欲す。己を利する者はわたくしなり。民を利する者は公(おおやけ)なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。

これは内村鑑三の『代表的日本人』の中で、西郷南洲の文章として引用されたため、大西郷の言葉として馴染み深いものになっていますが、実際は、二宮尊徳の高弟で『報徳記』を著した、富田高慶の文とするのが穏当な様です。(今手元に資料がないのではっきりしたことは分かりません。後日加筆するかもしれません。)

この引用箇所では、自分のためにするのは小人で、人民のためにするのが君子であると、明言されています。そして、小人は滅び、君子は栄えるとされています。大変素朴で明快な対比です。

己(おのれ)のためにするのは、論語では、理想として語られていました。また、人のためにするのは、頽落した現実のありさまとして批判されていました。ですから、字面だけを見ると、引用した箇所と正反対の意味になっています。生財篇では、己のためにするのは滅びに至る我欲の道で、人のためにする方こそ君子の取るべき道だとされているからです。

もちろん、孔子は、今回引いた箇所と同じ意味で、「己のためにす」と「人のためにす」とを対比して語っているわけではないでしょうから、たとえば、「爲人」という語句を「人に知られるように」という風に解釈して読もうとしているわけです。

さらに、論語の場合は、あくまで「学」の話であって、為政の話ではありませんでした。孔子の言う「学」について、わたしが昨日述べた捉え方が可能である余地があるかどうかは、もっと慎重に調べてみないといけません。時代状況の隔絶を無視して、現代人の妄想を投影して喜んでいるだけかもしれませんから。ただ、投影するに足るだけのふくらみを持つ言葉ということでもあるのでしょうから、これはやはり古典の備える度量の大きさと言ってもよい部分でしょう。



補足
吉田松陰曰、
「凡(およ)そ学をなすの要は己(おのれ)が為にするあり。己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。・・・」

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