悲惨さによせて(日記)

わたしたちの生はそれはまあ悲惨な一大絵巻ではあるが、その源はどこにあるのであろうか。


と、このようなとぼけた書き出しの存在が、もはやまぎれもない悲惨を例示しているのであるが。悲惨について述べる言の葉の、なんと悲惨なまでに悲惨でないこと。


絶望という語は人の手垢にまみれてべたべたになっている。会話の中でその単語が口に交わされる機会が他の言葉に比べて抜きん出て多いというわけではない。むしろ日常のやりとりの中では使われないことの方が多い。なのに我々にはその言葉は何よりも親しい。心内でよく発せられるのでもない。その言葉を内でも外でも使用しなくとも、我々はその言葉を何よりもよく知っている。


その言葉のまとう雰囲気は独特だ。我々が絶望を口にするとき、それは語の本来持つ生のままの意味で用いられるのではなく、大げさな滑稽の語感を伴って、少しの笑いを含んだものとして、話者と聴者に了解されることが多い。


わたしたちは絶望を知っているのだろうか。つまり、私達は絶望しているだろうか。


望みが絶えるのは、まったく悲しいことではない。むしろきわめて好ましいことだ。もし自分の持つあらゆる欲望の火が消えたなら、それはどんな静寂にも勝って静かであろうし、惑いに踊らされることもなく、落ち着いて時を享受することができるだろう。現実に於ては、望みが絶えないことが私達の絶望となっている。


私達は普段絶望という語を何か良い意味合いで受けとめているのではない。「彼女にはそのとき絶望しかなかった」と聞いて、心が愉快になり、「それは良かった」と晴れ晴れと応える者は、私達の持つ標準から見ればだいぶ変わっている。


私達に馴染み深い絶望の語義は、望みが絶える、ではなく、望みの実現が絶える、である。望み自体は変わらぬままあるのであり、ないのはその実現の可能性である。要するに、どうにも自分の思い通りにはならない、という嘆きに他ならない。


ただ、もしも望みの実現可能性が零だと確実判明な認識を得ることができたならば、私達は安んじて望みを放棄するのではないか。であってみれば、望みが絶えるのも望みの実現が絶えるのも、根は同じで切り離せない二現象と言えよう。


それで肝腎の我々の悲惨であるが、これは絶望できないという一点に負うことが大きい。生が続く中で、絶望し続けるのは難しい。絶望的に有り難い。


絶望というのは悲しむべき何か悪いものとして人の生に立ち現れる。絶望できないこと、すなわち非絶望もまた、思い切ることができない憂き世のありさまを映して、悲しい。絶望するにしても絶望しないにしても、どちらにしても、言い難い哀調を帯びる。


我々としては、絶望するわけでもなく、絶望しないわけでもない、第三の道を探さねばなるまいが、この前途も暗く多難である。


従って、私達の生はどうにも難しく、悲惨と見なさざるを得ない。


かくも言論をもて遊ぶほどまでに。

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