劇場と日常のあひだ

はじめに断っておかねばなりませんが、私はこの稿で、劇場と日常とは同じようなもの、という意味のことを述べますが、それはいわゆる巷間しばしば口に上る所の、人生とはお芝居のようなもの、という趣旨ではありません。

この種の話が出ると、たいてい引かれるのはシェイクスピアですので、少し見ておきましょう。

『ヴェニスの商人』からアントニオのセリフです。

'I hold the world but as the world, Gratiano;
A stage where every man must play a part,
And mine a sad one.' 

「わたしは世をあるがままに受け止めているだけだよ、グラシアーノ、
ひとつの舞台としてね、そこでは誰もが自分の役を演ぜざるをえない、
それで、わたしのは、かなしいものだったというわけさ。」

このような、世界を舞台と見て、人間をその上で何か大きな芝居の一役を演じる(演じさせられている)役者と観じる発想は、西欧ではかなり根深いところがあるように思います。


さて、私が本稿で述べたいのは、

「劇場の仮構と人生の現実との間には、畢竟程度の違いしかない。

現実においてぼんやりとしか見えないものが、劇場でははっきりと見えるだけである。」

ということです。

日常とは、意味の薄いお芝居の一部、といってもよいでしょう。


では、私は、何を見たいのでしょうか。どんな舞台を見たいと願っているのでしょうか。私は現実に何を見ようとしているのでしょう。何を、見ているのか。見てしまっているのか。

私には、何が見えたのか、を述べることしかできません。記憶を反芻することしかできないのです。そうして考えるのです。わたしは、何を見ていたのかと。

たとえばこういう光景です。

永遠。はとが鉄橋に舞い降りて、丸い橋げたを行進していった。光のかすみのなかに、路地の出口の向こうに、小さな公園があって、梅の花がひらりと舞い落ちた。

これは何でしょうか。どんな物語の一部なのでしょうか。あまりに印象が強く迫るので、人は考えざるを得なくなるのです。が、難しいことです。劇場と違って、決まった筋書きも題目も解説のパンフレットも、渡されていないのですから。始めは当惑することしかできないでしょう。

いまや、わたしの目前に舞台が広がり、そこでは実に様々な役者たちが入ってはその都度なにか割り当てられた役を演じてみせ、去って行き、その繰り返しです。私はそのほのめかしを、未完成の演劇を、自分の書斎で頭の中に完成させるというわけです。実際に劇場に行くのは、もはや趣味が合いませんし、私には強すぎます。暗き建物に入って目を閉じる時期は過ぎたのです。

これは思うに誰しもが経験する成り行きでありましょう。人は誰でもその青年期において、劇場へと足を運ぶものです。おそらく彼には必要なのです。不安定で、拠り所のない、空漠たる世に漂って、確かなものとてない青年には、劇場での芝居と音楽、書画といった芸術作品は、生存を続けるためのなにがしかの理由を与えてくれる、友であり、慰めであり、いったいに所謂彼の前に姿を現した「美」とは、大げさな表現ではなく、唯一の希望でもあるのです。彼は芸術にのめりこみ、他のことが手につかないまでに没頭するでしょう。

しかし、そんな青年がどうにか生き長らえて、大人になったとしたら、次の段階が必ず訪れるはずです。それは、劇場から足が遠のく時節であります。

彼は昔舞台の上に見、聞いていたものを、自分のなかに見、聞き、考えようとします。黙考の季節が来たのです。もはや彼にとって、公衆と共に音楽会の一席を占めることは、気晴らしにすらなりません。彼には他にすべきことができたのです。それは、外に向いていた目をひるがえし、内へと視線を集中することであり、それを継続することです。

そうして、彼の前には、一種の劇場が姿を現すのです。この劇場は具体的な舞台を持ちませんし、特定の仕切りで限られた場所にのみあるものではありません。目の前に広がるすべてが、彼にとって、物語として現れるのを、彼は感じ取り始めるのです。彼は、まだ慣れない目を丸く大きくして、彼の目前に展開し流れていく舞台を観照し、読み取ろうとするでしょう。

日常とは、ここにおいて、非劇場なのです。すなわち、劇場ほど鮮明でないぼんやりした舞台、という意味においてです。

劇場とは、意味に満ちた空間です。充実があり、明確さがあります。そこでは「何らかの物」が提示されます。何ものでもないものではありません。

はっきりとした認識を持っておくのが、現代人の健康にはよろしきことでありましょう。劇場とは何か、演藝とはなにか、能とは、歌舞伎とは、舞踊とは、音楽とは、絵画とは、なにか、わきまえておくのがよいかと思います。唯一の正解などはないでしょうが、少なくとも、自分の足で立ち自分の頭で考えて世を渡って行こうと思うならば、よくよく反省してみるべきであります。

劇場にいくとき、人は足を止め、自らに問うことがあるでしょうか。
「いったい、俺はこれから何を見に行こうとしているのか」
はたしてそれが自分にとって良い物なのか悪い物なのか、わかっているのでしょうか。わからないままで見に行こうとしているのではないでしょうか。それがどれほどの劇薬か、とりかえしのつかない変化をこうむる可能性を、どのくらい承知して臨んでいるでしょうか。


最後にシェイクスピアからもう一節。『お気に召すまま』より。訳は適当です。


DUKE SENIOR
Thou seest we are not all alone unhappy:
This wide and universal theatre
Presents more woeful pageants than the scene
Wherein we play in.

JAQUES
All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;

兄公爵
「われらだけがただひとり不幸なのではない。
この広い世界共通の劇場では、
我々が演じているこの場面よりも、
ずっといたましい演目がかけられている。」

ジェイクイーズ
「なべて世は一舞台。
すべての者は役者に過ぎぬ、
自分の出る所と入る所を持つ。」


シェイクスピアの作品で、「人生は舞台」という話しがでるとき、そこには憂愁のトーンがつきまとうようです。嘆きといっても言い過ぎではないでしょう。何かあきらめというか、諦観したような感じがあります。

わたくしも、人生は舞台に過ぎませぬと言いたいところですが、たぶんこの場合は、ひっくり返して、「舞台は人生に過ぎない」と言う方が適切でありましょう。

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