著作紹介 東都百景(6)


みなさまこんばんは。


私は前稿で、

自著についての定見を筆者ほどよく備えていない者はない、

という意味のことを述べました。

今回は、もう少しその内実に踏み込んでみましょう。



分からないとは、この場合、どういう事態なのでしょうか。

分からないというのは、分かることができない、

ということですから、

まづはじめに、分かるとはどういうことか、

から考えて行きましょう。



ごく素朴に言うと、

分かるとは、AはBである、と認識できることです。

たとえば、カップに琥珀色の液体が注がれているとします。

見ただけでは、それが何か、まだ分かりません。

それは、紅茶であるかもしれないし、

ウーロン茶であるかもしれないし、

古いブランデーであるかもしれません。

一口飲んでみて、

もし自分の知っているものの範疇にあれば、

それが何かわかります。

たとえば、それは紅茶であります。



私も、自分の書きものが何かを言うことができます。

それは日本語の文字で書かれた文章です。

ここまでは、私でもわかります。

問題は、この把握がほとんど作品自体とは関係がない、ということです。

そして作品の方へと目を向けて、よくよく検分しようとすると、

迷いの森をさまよう私は、

わからないなにか、のまわりで踊らされます。



我々は、普段、分かっている世界に住んでいます。

そこで出会うほとんどの事物は、

既に解釈され、分別され、理解されています。

古典的な例で恐縮ですが、毎朝家を出るときに、

ドアノブといちいち未知なる遭遇を果たしていたら、

これはきわめて大儀なわけです。



紅茶を飲んで、その香りと味の深淵に感銘を受け、

探究をする、というのは、なかなかない体験ですが、

前代未聞にすばらしい出来の茶葉によるそれならば、

おそらく飲み手の舌に未知なる印象を与え、

探究へと誘うものかもしれません。



『東都百景』もそのような類の茶葉であればと思いますが、

私自身には判断ができかねることですね。



もっとも、私が自著を分からないのは、

分からないままでいられるのは、

作品を愛しているという個人的事情からかもしれません。

もし愛情を持てなければ、

「現代文学」とか「哲学」とか「詩」とか、

適当に称して、それで済むでしょう。

私があえてレッテル貼りに、

多分過剰なまでに敏感に反応してしまうのは、

作品のことを思っているからなのでしょう。



何の思い入れもない他の人が虚心に読んだら、

「この本は~~である」と、

かんたんに分かるものかもしれません。




どうもとりとめのない感想になってしまいます。


お読み頂きまして有難うございました。

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