考えるのと考えさせられているのとは違うということについて

道路工事、カラスの声、鳴弦、靴音、お喋り、などを、騒音、雑音と感じることがある。騒がしいと感じるのは不快なものだ。しかし、同時に何か感じるものがある。奥の方にかすかに胸をざわつかせる何かが潜んでいる。

それは不快とは在り様を異にする、違和感といったものだ。快感であれば、おそらく立ち止まることなく過ぎてしまうだろう。不快において、顔をしかめた人が、規則正しく律動させていた足をとめ、じっと聞き耳を立てる。彼は探っているのだ。不快の源を。不快から離れたいがために不快を知ろうとしているのだ。それで彼は気付いた。しげみの向こうにほの見える何かしらざわめきたるものを。それが息をひそめてこちらを伺っているのを。

彼は一度その存在に気づいてしまえばもう忘れて陽気に駆け回ることができない。彼は目をこらす。そして言葉をかけてみる。おまえはなにか、と。こたえは返ってこない。


おそらく問い方を間違えたのだろう。さて、


彼は理解する前に騒音を聞いたのである。判断した結果なのではない。何らかの音を知覚して、この音は俺にとって好ましくないものだ、だから騒音だ、不快だ、と意味付けたのではない。それは始めから騒音として彼の耳に入ってきたのである。彼はそれがどうして不快なのか、知らない。知らないのに、彼は不快を感じた。それ自体が騒音であったものが彼の耳に入り不快を生じせしめた、のか、彼の耳に入った音のうち不快を生じさせたものを騒音と認識したのか、どちらか。

彼が純粋に知的な存在であるならば、判断以前の音は騒音でも佳音でもないはずだ。それでこの場合には、彼はそれを騒音だと理解する前にすでにそれを騒音として受け取っていた。ということは、音がそれ自体として騒がしいものであったのである。

これは、判断以前の音は騒音でも佳音でもないという結論と食い違う。また、音がそれ自体で独立絶対に存在するとなると、この場合、その一様態であるところの騒がしい音が彼を襲ったことになる。彼の認識によって、ある音が騒がしいとされたり、また別の音が静かという意味を与えられたりするのではない。

しかし、これは我々の普段体験する所とかけ離れている。我々は、ある音が、こちらの状態に応じて、あるときは不快に聞こえ、あるときは快く聞こえるという日常に馴染んでいる。また、人によって、ある音が、不快にも快感にもなりうると知っている。マツムシの鳴く音は、ある種の心ある人にとっては風情あるよきものだが、焦りや不安に駆られた忙しい人には迷惑な雑音に過ぎない。同じ音が、快としても不快としても受け取られるのである。音はそれ自体として快音であったり不快音であったりするのではない。

従って、彼は純粋な知的存在というわけではない。

彼には肉体があり感覚がある。知は彼の一部分に過ぎない。彼は、知があるとしてもそれですべてが構成せられているのではない、混淆せる不純物である。音が入ってきたとき、彼の肉体にとっては大きくがさつに過ぎたので、不快という反応、感覚が生じた。それを受けて彼の頭はそれを騒音と判断したのである。追認したのである。

彼は肉体というそれ独自の基準を持つ物といわゆる知性との混合物なのに相違ない。


しかし、以上の言論は、考察しているのではなく、現状を、現在の思考様式を、なぞっているだけに過ぎない。私は、考えているのではなく、考えさせられている。考えているように思えるが、実は始めから目的地の定まった冒険に出ていたのである。

我々はもう一度彼に尋ねてみよう。不安は去ったか、と。自分は何らかの混ぜ物なのだ、とわかって、それで君の気は済んだか、と。

彼は、自分がどうしてある音を不快として感覚したか、知ってはいない。だから、知ろうとした。肉体を分析し、細部を一つの視点の元統合して、自己を理解し、その自己理解と、騒音として聞こえてきた空気の振動の研究結果と照らし合わせ、納得に至ろうとした。「これこれの理由によって、俺はあの音を不快に感じたのだ」と。

しかし、違和感は消えない。完璧に説明され、納得しても、何かひっかかるものが残る。

彼は、「これこれの理由によって」不快を感じたわけではないのである。理性の推論は後付けに過ぎない。それがたとえ正解だとしても、彼にはその答えでは十分ではない。

彼は、例えば、「音が大きすぎたから」、不快を感じたのではない。彼は、ただ不快に感じただけなのだ。

彼は理解していない。なのに彼は経験している。しかもそれはけっして無限定の経験ではない。何らかの特殊な経験なのだ。なんと驚くべきことだろうか。


しかし、私の筆はまだその驚きを経験していない。どんなに回り道に見えようと、少しづつ歩いて進むしかない。私よ、肝に銘じておけ。階段を一足飛びに走り昇れば、たしかに高い所には行けるだろうが、その景色はいわばご褒美のようなもので、世にあふれる下らぬ品を誘いおびき寄せる、蝿取りかごなのだ。

コメント

このブログの人気の投稿

二月二十四日 ねえ・・・

五月二十四日 ぐらたん

六月二十日 のぞみ