著作紹介 東都百景(5)


みなさまこんにちは。

今日も冷えますね。



さて、数回にわたり、

拙著『東都百景』の紹介を続けて参りましたが、

いかがでしょう、当作がいったいどのような書物であるか、

想像がおつきになったでありましょうか。

幾分かでも、だいたいこのような著述なのだろうな、

くらいの見当でもつけて頂けたなら、

私としても嬉しいのですが、

結局のところ、直截に言って何の本なのか、

単刀直入に教えてほしい、という感想を抱いた方も、

中にはいらっしゃるかもしれません。



実は私自身も、似た思いを持て余しておりまして、

畢竟どんな本なのだ、

という疑問について的確には回答されていない現状を、

心配しています。



ただ、驚くべきことに、認めざるを得ないのです。

著作者の私がおそらく最もこの本の説明をするのに適しない人間である、

ということを。



私個人の読解能力や説明能力の程度が最低だと告白したいわけではありません。

自分の本の説明がかんたんにできたら、

どんなにか私は仕合わせでしょう。

「この本の主題はこれこれで、方法論はかくかくで、

特徴としてはしかじかで、最終結論はこんな感じになります。

けっこう面白いですよ。」

などと喋(しゃべ)ることができたら、

どんなにかよいでしょう。



しかし、現実には、

一番この本のことを分かっていないのが、

書いた当の張本人、筆者なのです。



自分の著作が何なのか、

文学なのか哲学なのか、

それとも宗教なのか、

あるいはそれらの混淆物なのか、

それとも全然違う何かなのか、

私には分からないのです。



一言でこれと言えなくても、

言葉を尽くして語られるものなら、

その労を惜しむ者では決してございませんが、

自分でも分からないから、

人にも説明ができないのです。



誰か読んだ方が説明をしてくれるなら、

私は喜んでその方の解釈に耳を傾けるでしょう。

私にとっては、この作品は、

一種の謎なのです。

謎めいた、何か得体の知れない、

けれど目を離すことができない、

そんな出来事なのです。



さきほどから、わたし、わたし、

と私の話ばかりしておりますね、

ごめんなさい。

この本は、私が、

自分以外の人が読むことを前提にして書いた、

はじめての言の葉です。ですから、

人にせめてどういう本かくらいは、

理解してほしいと思うのですが、

うまくいきません。



色々申し述べましたが、

話は筆者に限ったことではないような気も致します。

もし誰かこの本をお読みになったとして、

即座に、この本はこれこれである、

と明晰な理解を得てしまうというのは、

いかがなものだろう、とも思います。



私は、読者の方と、この作品、つまり、この漠とした何かを、

共有したいと願っているのかもしれません。



お読みいただきまして、有難うございます。

まとまりのない内容で失礼を致しました。

またあそびにいらっしゃって下さい。

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