本を書いた後の苦しみについて

『東都百景』を書いていたときは、毎日針の筵(むしろ)に座っているようでしたが、今思いますと、ほんとうに苦しいのは、本を書いている間ではなく、書き終えた後かもしれません。よほどの楽天家でもなければ、本が売れないという現実に心が押しつぶされてしまうでしょう。

勇気を振り絞って語りかけた相手に無視される、という出来事が、毎日毎日繰り返し続くようなものです。もちろん、話しかけるのをやめれば、こちらの心の重荷も軽くはなるのでしょうが、どうしても思いきれず、わかってはいるのに、この身を放り出して、また同じように語りかけてしまうのです。我ながら愚かなものと思います。

話しかける相手を間違えているのでしょうか。たとえば、釣りが趣味の人たちの集まりに出かけて行って、アリストテレスのギリシア語について演説をぶつのと似たことをしているのでしょうか。その集まりの中には一人くらいはギリシア語の専門家がいて、話を聞いてくれるかも分かりませんが、必ず残りの九割から顰蹙を買うことでありましょう。いわゆる、場違いな行為であり、私は空気が読めない、迷惑な奴に他なりますまい。

べつに、アリストテレスについて話すこと自体が悪いわけではありません。時と場所をわきまえる良識に欠けている当人の方の問題です。そういう話がしたいなら、そういう話に興味を持っているようなグループの中で、するべきでしょう。実際、釣り好きの集団の中にいた一人のギリシア語教師でさえ、釣りの話をしたくて来ている集まりで、それ以外の仕事の話をされたら、不愉快に思うでしょう。

私が今ブログやツイッターでしていることも、これと同じようなものなのではないか、と不安になるときが何度もあります。毎日、日に何度も、自分は何かおかしなことをしているのではないか、と自問せざるを得ません。悲しく、苦しいのも、自分がそもそも不合理な行為をしているからであって、「みんながわたしの話を聞いてくれない」と泣いても、慰めようのないことです。聞いてくれないみんなが悪いわけではなく、自分の方に問題があるだけなのですから。

私も場違いな愚か者なのでしょうか。たしかにこのまま続けていても、認めたくはないですが、本が読まれることはないかもしれません。その覚悟はしておかないといけません。ただ、私としては、そもそもどうして本を大手出版社とか文学賞とか、公の場所に持ち込まなかったかと言えば、そのような権威付けによって本が読者の手に渡ることを嫌ったからです。本を汚したくなかったのです。きれいな白いままの状態で、縁あって手にとって頂ける方に届けたいと願いました。

そうして、たまたまこの本とめぐり会った方が、その方自身の言葉で、この本について隣人に語りかけ、その輪が自然と広がって行くのであればよいと思っていました。

トップダウン方式の、上から下への押しつけをしてしまうことを、私は何より警戒しました。上意下達という縦の関係ではなく、同じ目線同じ境遇の人間として、平らな横の関係の中で、この本の行く末を考えたかったのです。

以上のような考え方は、私の個人的性向というよりは、『東都百景』という本が私にそのような思いを持つことを強制した結果と言えましょう。本自身が、作者に、そのような仕方で世に姿を現すことを希望したのだと、思います。本の内容が、私に扉を叩くことを控えさせたのです。私の好きにしてよいような本ではありません。作者の名声を上げるために利用できるような、そんな簡単な本ではないのです。この本の印税で生活できたらどんなに救われるかと、私も(そして家族も)食べねば生きられない生身の人間ですから、夢見ないではいられませんが、お金のためにこの本を利用したとき、私は自分のすべての尊厳を自分の手で捨てることになるでしょう。

路傍で野垂れ死ぬのをいとわない覚悟がなければ、書くということはできないと思います。よく作家になりたいと言う若い方がおりますけれど、私にはその方の気持ちを想像することができません。そのような覚悟は、思うに、人間としては、しようとしてできるようなことではないからです。

作家というのは、思えば、私が一番なりたくなかった職業です。昔から、なりたい職業を聞かれると困っていたのですが、なりたくない職業ならはっきりしていました。物書きです。売文で食べていくのだけは、心の底からいやだったのを記憶しています。

今でも自分では作家になったとかいう意識はありません。文を売って生活するのは、恥ずかしいことという感覚があって、なくなりません。

そもそも作家とは職業ではないと思います。社会の網の目の中で、落ちるところまで落ちて、引っかかった地点で他にすべもなく、仕方なく、どうしようもなしに、ペンをとるものだからです。人間のくずみたいなものでしょう。

私は、特定の専門家に向けて書いたのではありません。これは論文ではないのです。ですので、私には、この本がどういった方々に関心をもって読まれるか、見当が付きません。文学書を書いたなら、文学好きの人に見てもらえばよろしいですし、哲学書なら哲学に興味のある向きに、釣りの本なら趣味が釣りの方にお渡しすれば、それで済むのですが、私としては、どんな人に自分の書いたものを見せるべきか、よくわかっていません。

おそらく、特定の誰かに対する本なのではなく、無限定のなにか、人間のようななにか、いわばそういった所に対するものなのかもしれません。少し言い過ぎかもしれませんけれど。

ともかく、当分は、日々の痛みに耐えられるように神経を太くして、地道に過ごして行く他ありません。

以下はツイッターにあげたものですが、こちらで今日は失礼を致します。



もみじいちご(キイチゴ)のつぼみが開きました。
今日も袖口と襟元のほつれたシャツに腕を通します。

参らばや いちごの花を 袖に差し


コメント

このブログの人気の投稿

二月二十四日 ねえ・・・

五月二十四日 ぐらたん

六月二十日 のぞみ