もののかなしさについて


ものがなしい、とでも言ったらよいのであろうか。

昼も半ばを過ぎて、小腹がすいたので、頂いたお菓子をつまんでいると、

言いようもないむなしさに、涙がこぼれそうになる。


画面上に現れた、線と点の集合を見つめていると、

見たいものであったはずのそれは、物言わぬ古びた人形となり、

色あせた、興味の失せた、うつろな山水画に成り変わる。


どこへおもむいても、先が透けて見えてしまう。

どこに目を移しても、すでに先回りされていて、すげなくあしらわれてしまう。

自分の欲望が、どこかへ行きたいと思って、はけ口を探しているのに、

明確な形と方向を持っていたはずのそれは、支えを一瞬にして失って、

溶けて崩れて、元の粘土に戻ってしまう。


自分など、このかたまりなど、壊れてしまえばよいに、

こわすことはできない。

壊せるくらいの何ものも、私のまわりにない。


どこへ行っても行き止まり。それもわかってはいるのに、

突き当りまで歩いて行かざるを得ない。

それで前の壁を感情のこもらぬ瞳で眺めながら、ああ、とだけもらす。

引き返す足どりも来た時と変わらず、

失望も、希望も、とうの昔に路傍に置き忘れて、

どんな下さらないことが今日は待っているのかと、

ひたすらに受け容れるのみ。


かなしい。

なんだろう、この透明なかなしみは。

わたしはなにゆえかようなかたまりなのであろう。


おしえてくれ。いや、やはり結構、

むしろ、そこの棒切れで、私の頭を思い切り殴ってくれ。

永劫同じ行為を徒労に繰り返すだけの神話が、

なかなか楽しく明るいおはなしに聞こえる。

つらい肉体仕事を強制させられた奴隷なら、

少なくとも今のわたくしよりは、ずいぶん仕合わせであろう。


これは何の罰なのだろう。

何の、罪の、つぐないを私はしているのだろう。


むなしい。このむなしさに留まることで、何かが生まれてくるのであろうか。

もしそうだとしたら、それは何という生産的な空虚であるだろう。

くだらない。


紙があったから、ペンにインクが入っていたから、

人はかきなぐったに過ぎない。

せんないものだ。

酒に吞まれて八つ当たりして気分を晴らそうとする、

人間らしい人間に他ならぬ。


この目は本当に愚かしい。

何度も何度も同じことを繰り返してばかり。

ほら今も、あんなに冷たく沈んでいたのに、

少しの焔が現れ始めているではないか。

私は何をまた期待しているのだろう。

何を見ようとしているのだろう。

画面の黒い点の先に、何を求めているのだろう。


欲望が鏡にあたってそのままこちらへ跳ね返ってきたので、

持て余してしまい、動く先を見つけようと探すのだが、

見つからないで、

それで跳ねるうさぎを抱えたまま、

どうしようかとたたずんでいるのである。

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