宣伝文句を考案してみました

こんな宣伝文句はいかがでしょう。


今、「われらの生存はいかなるものであるか」と慨嘆されたあなたへ

――白子柞 『東都百景』――


もし電車の中刷り広告にこのような文句が貼ってあったら、よし買おう、と思いますか。

いやむしろ、不愉快に思われる方が多いのではないでしょうか。

「なに、俺たちの実存はどういうものか、だって?そんなこと、教えてもらわなくとも十二分に知っているよ。息苦しい満員電車に押し込められて毎日通勤、身も心もぼろぼろになるまで働かされて、疲れて帰れば女房の小言、休まる天地はどこにある、ってな馬車馬さ。」

あるいは、こういう方も多いでしょう。

「わたしたちの生存ですって?まあ、なんて粗雑なキャッチコピーでしょう。書いた方のお里が知れますわ。だいたい、このような電車に打つ広告としては、完全にターゲットを取り違えておりますわ。ここにいる人たちのうち、いったい何人が、そのような茫漠とした曖昧な問いに興味を抱くでしょう。私に任せて頂けるなら、むしろこうするべきですわ。「幸せな老後を送るために今すべき十のこと ――増刷決定!――」それで適当な著名人のコメントを付ければ十万部はかたいですわ。」

または、

「なんだ、また新手の宗教か。中身まで否定するつもりはないけど、この手の物のもつ、特有のいかがわしさは何なんだろうな。」

とか、

「いや、それはそういう疑問を持つときだってあるけど、哲学書なの?難しいのはお断り。」

さらには、

「われらの実存が気になったことは一度もないな。自分の実存はいつも気になるけど。」

はては、

「人間のことが知りたいなら、医者にでもなるか、古典を読めばいいんじゃないかな。」

ついには、

「ピケティ読みたい。」

という様に、色々な反応がありそうです。


自分について言えば、気にはなりますが、あえて手に取る所まで進むかどうかは、それだけの文句だけでは微妙ですので、頑張って少し紹介文を補足してみることにしましょう。

言語というのは、非常に繊細なものであって、取り扱うのに細心の注意が必要です。言葉を普段様々な用途に使役している人の通常のあり方に留まる限りにおいては、このような関心はおそらくきわめて小さなままに抑え付けられるので、大事の考とはなりにくいものです。いったん、自分がその中に漬かっている所の、言葉との関係より離れて、ことばに相対して向かい合うようになれば、そのときはじめて、言葉にかけられていた手かせと足かせを外して、なにか今までとは違う関係へと進む可能性が、開けることでしょう。この本も、そんな可能性をめぐって、かつて幾人もの人が歩いてきた杣道(そまみち)を、手さぐりでたどり行くものの一つです。

とりあえず思いつくままに述べてみましたが、少しはどんな本かイメージする助けになったでしょうか・・・・・・。

もっとも、言葉との関係より離れて向かい合う、と記しましたが、そのようなことが簡単にできるはずもありません。課題としては、言語をして考えせしめること、そのためにどうしてもまづ要請されるのが、我々自身の頭で考えるのを中止して、あちらの働く余地を用意してあげる、ということです。こうして申し述べると実に明瞭なのですが、実際の現場においては、かくも不明瞭なこと他にありや、といった情況です。『東都百景』という書き物は、ある種の場所において、人間がどのように動きどのように望みどのように問うのか、その場所に身を置きながら煩悶した、その跡と言うこともあるいはできましょう。ご一読の際には、そのあたりの消息も感じて頂ければと思います。


ずいぶん長い紹介文になってしまいました。
みなさまはいかが思われるでしょうか。


今日はこのあたりで失礼致します。

ははそ

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