書くことについて

奇蹟について語る言葉はありふれているが、奇蹟そのものであるような言葉は稀である。人が書きたいと願い、聞きたいと欲するのは、しかし、そういう言葉ではないだろうか。もしそんな言葉がどこかにあったら、それがどんな辺境の未開地であれ、どんな恐ろしい蛮獣の棲む巣窟であれ、行って見たいと思わない人がいるだろうか。そしてもし手に入れることができたら、どんな大金を積まれたとしても、今日の糧にも事欠くありさまであったとしても、手放そうとする者があるだろうか。それこそ他に架け替えようもない宝物ではないか。

正しさや意志の強さ志操の堅固さは、かえって邪魔となる。心と体が折れて伏しても、再び立ち上がろうとすればまた元の正しさに帰ってしまう。一度蜜をなめればことが足りるというものではない。それは困ったとき神に頼み込むのに等しい。

その時が来たら、書かねばならない。その時が来ないなら、書いてはならない。書いたとしても、よく似たまがい物がこの世の中にまた一つ増えるだけのことだ。その時はいつなのか。人は知らない。決めるのは人ではない。その時は来るのか。人は知らない。決めるのは人ではない。まったくやって来ないかもしれないし、すぐにも到来するかもしれない。

書かねばならないというのは、義務という意味ではない。それは人の責務なのではない。書かないという選択肢が存在しないということ。人が書くわけではないから。もっとも本来を言えば、何を書くにせよ、書くときはいつも、人というわけではないような所が元々働いてはいるのである。どこか遠くからやって来るのではない。いつもすでに来ている。

書きたいと願うところのものを書こうとするにあたり、伏して伏してお祈りをしてから始めるのがいかにも筋の通った順序であるように感じる。いったいに文才というものが存在するのであれば、自分のところにはないということ、よく承知している。ただ思うのは、拙い筆先がより能のある人の目にとまって、その者がいわば書き改めてくれるのであれば、私は満足するだろう。この企ては、決して直視してしまわないよう目をそむけながら、しかも同時に視界の片隅の端の端にほんの少しだけその影をほのかに感じながら、行われることになるだろう。一本の細く張り渡された綱を渡る童子のように、いつ落ちても不思議ではない。私は顔を上げることができない。上げれば光に打たれ真っ白に焼かれて人の形を失い塵となるだろう。これは畏敬の念だろうか。こんなに不気味なものがこんなにすぐそばにいるとは。凄絶なるもの。もう何も言上げすまい。頓首。身動きもできない感覚。通り過ぎるまで、落ち着くまで、じっと息をひそめて。


(2011年7月の走り書きより)

コメント

このブログの人気の投稿

二月二十四日 ねえ・・・

五月二十四日 ぐらたん

六月二十日 のぞみ