やまぶきの便り

やまぶきは日に日に咲きぬ うるはしと我(あ)が思(も)ふ君はしくしく思ほゆ
(万葉集 巻17より)

越の国で臥せっている家持に対して贈られた、大伴池主の返歌です。

「山吹が日に日に咲いていますよ、大兄のことがしきりに思われますことよ」


こちらではまだ開いていないのですが、東京ではもう咲き始めたということで、いよいよ明るい季節の来るのを感じています。部屋の気温も二十度近くなる日が多くなってきました。今日は朝から雨がしくしく降っています。昼からやむとの予報でしたが、はて。

うるはしと我が思ふ先哲の、洞窟の比喩のことが今朝ふと思い出されました。この物語を正しく導く解釈学があればよいのかも知れません。固定された理解に常に再考の余地を与え、読み手の状態と共に導かれる意味もその都度また変化していくことを受容する、そんなおとぎ話があるとしたら、この寓話もその一つでしょう。解釈し直すということは、対話の中で生まれるものではありますが、作品の側からというよりは、読み手の側からの働きが大きいと思います。作品は鏡のようで、覗き込む者はそこに自分の顔を見つけます。鏡はその痴愚を指摘してくれるほど親切な道具ではありません。

ただ、寓話は寓話であって、つまり寓話に過ぎないのであって、だからこそ、そこに凝縮して語られた内実に関しては、その話を読んでよく研究しただけでは達しえないものです。それは寓話の外で、各人が行わなければなりません。行ってみてはじめて、その物語で語られていたことの実際に、気が付くというものです。自分の足で歩いてみてはじめて、その地図が何を指示していたかが分かる、そういう種類の地図なのであり、何に対しても開かれた暗号なのです。解こうと努力する試みは不毛に終わるでしょう、諦めて一周して戻ってきたら解かれていた、ということはあるかもしれません。しかし所詮その開示もまた限定的なものに留まるのであり、物語の大きさという尺度があるならば、それは様々な段階の開明を包含する度合となるでしょう。

大きな物語。どこまで大きいか、まだ果ての見えない物語。それを解釈するということは、それを書き直すということ、そんな物語。


やまぶきは日に日に咲きぬ うるはしと我が思ふ事はしくしく思ほゆ 


そんな四月のはじめの日。予報通り、日がさして来ました。


コメント

このブログの人気の投稿

二月二十四日 ねえ・・・

五月二十四日 ぐらたん

六月二十日 のぞみ