あり方といふ問題(四)
その価値や正・不正、善悪は置いて、満足そのものについて見れば、満足を求めるといふのは自然なあり方におもはれる。
膨れ上がった腹を抱へてうとうと夢に耽る午後、そんな時間が永遠に続けばいい、さう思ふことはあっても、実際にさうなったら、どういふ感情を抱くことになるのだらう。
これでよいのか、と自問することもあるだらうか。その必要があるだらうか。
現状を見詰めて反省するのは、何か問題が生じてゐて、その解決が求められてゐるから、その手段として思考といふ行動に出るのだとすると、何の苦しみもない状態が存続することが保証されてゐるなら、問題は生起せず、したがって考へるどころか、そもそも行動をする必要もない。
安穏と暮らして行ければよいのではないのか。もしもそれが可能ならば、どうしてそれを取らない理由があるだらうか。
探してみても、さうした理由は見つかりさうにない。
棚に上げた現実をここで戻せば、つまり、ほとんどの「問題」は、求める満足が諸事情により得られない、といふ状況に起因する。問題解決とは、言ひ換へれば、満足に至ることに他ならない。
そもそも満腹の肥えた牛となることが目指されてゐるのであり、実際にさうでないのは、やむを得ない現実の諸条件によって強制された結果に過ぎない。
ところで、もしも上に述べたことが正しいならば、問題とは、欲求充足のために解決されるべき障碍であり、方法とは、解決を導くための手段である、といふことになる。
我々の問題も、そのやうな問題と同質のものなのであらうか。
つづきます
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