あり方といふ問題(五) 間奏 ・・・疲れといふ病・・・

疲れといふのはどこから来るのでせう。

昨晩夜更かしをしてしまひ、二時間しか眠れなかった、それで今疲れて猛烈に眠い、といったことがあります。これは寝れば直ります。

近所の公園に行って全力疾走する、息が切れて動けなくなる、これはしばらく木陰にゐれば直ります。

人と喧嘩して気が立っている、これは相手の顔を見なければ直ります。

では、どうせでう。癒されない疲れといったものがあるでせうか。

あるやうに思ひます。

それは特殊なものでせうか。いや、多分とても身近なものです。

勤め人の二日酔ひくらゐには、日常的に起こる茶飯事です。

一部の人間が稀にかかる病気のやうなものではなく、誰でも普段経験してゐるものです。

共同的に解決する道は、それは例へば祭りであったり踊りであったりといふ形をとったかもしれませんが、この時世には望めませんし、望ましくもないでせう。

ただ、人が抱へたこの爆弾を、そのままにして置くわけにはいきません。放っておけば爆発して自らも周囲も滅ぼすことになると分かってゐるからです。

疲れといふのはどこから来るのでせう。

職場の人間関係がつらい、これは辞表を出せば直ります。

小麦粉をこね続けて右手の感覚がない、これは左手も使へば直ります。

朝から家族の買い物に付き合って、夕方、やるせない、これはふて寝をすれば直ります。

では、どうでせう。人につきまとふ、癒しやうなき疲労感、これはどこから来るのでせうか。

ペンを持つ手が重い、書くことがあったはずなのに、白紙に向かふのが心苦しい、考へたくない、酒に酔って横になるしかない、このままずっと目を閉ぢてゐたい、これは典型的に疲れてゐるのです。

疲れといふのは逃避行でもあります。逆行です。嫌になり、怖くなります。人の前に、「何もかも忘れて気持ち良くなる薬」をぶら下げてみて下さい。どんなに志操堅固な紳士でも、手を出すのに少しのためらひも見せないでせう。

疲れた者はなんの役にも立ちません。彼の口から出る言葉は彼の白昼夢であって、韻律的あるいは学問的装飾で彩られてゐる場合が多いのですが、我々は優れた聞き手であるべきでせう。そのまま耳を傾けるべきものではありません。

この疲れはどのやうにして直るでせうか。それとも、ごまかしごまかし終生まで付き合ってゆかねばならない不治の病なのでせうか。

あるいは、それはそもそも否定すべきものなのでせうか。善き病、といったものがあり得るでせうか。

疲れてゐる者が、疲れはどこから来るか、といふ問ひの道を辿るとき、そのときその問ふ者は疲れてゐるのかゐないのか、どちらなのでせう。

むしろ、そのやうな問ひかけが可能になる地平こそ、ひとつの証拠と言ふべきなのかもしれません。疲れてゐる者は、疲れてゐつつ、疲れてゐない、やうなのです。これはどういふ事態と解すべきでせうか。



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