あり方といふ問題(三)

食べた後すぐ横になると牛になっちゃうよ、と小さい頃に親から注意された記憶がある。健康上の関心もあったらうが、多分そのこごとの主眼は、怠惰への戒めにあったとおもはれる。かやうな教育的訓戒の目指すところは何であらうか。食べるときは腹八分で留めておき、食べた後はすぐに仕事に取り掛かれるやうにしておく。子供は、身を削って働くことが推奨されてゐるのかなといふ気になる。

昼近くになってやうやく起床して来た子供に、結構な御身分でございますこと、と皮肉を言ふ。これはもちろん、庶民的価値観からすると、誉め言葉ではなく、身分不相応な振舞ひをした子への非難であり、裏を返せば、もっと早く起きて勉強しろ、といふ意趣なのである。

怠惰は悪、勤勉は善なり。

かうした価値基準について、時代的、社会層的、思想的由来は今は問はないでおかう。我々の問題は、満足してゐるといふ肯定的状態は、疑ひなく善いものであるかといふ点にある。

腹十二分まで詰め込んで、太った牛は、容易に動けず、体も心も、まどろみの内に日を終へるだらう。労働はできない。満ち足りた人間は、この牛に似てゐる。

満足はなにか悪いことのやうな気がしてしまふ。お腹いっぱい食べて惰眠をむさぼるより、不満足でゐたとしても、あくせくと他の人々のためになるやうな仕事に精を出し疲れ切って眠る方を選ぶ、いや、選ばないではゐられない。このやうな心持ちは、きはめて容易に想像できる。

現実に、ただめし喰らひとか穀潰しとか高等遊民とか、蔑称として使はれる場面が多いやうにおもふが、さう非難される当の人達は、楽な生活を楽しんでゐるかとおもへば、案外逆に苦しんでゐるもので、事情は様々でも、ままならない状況によりさうした生活を強ひられて送ってゐることが多い。ひときれのパンで飢ゑをまぎらし、身を粉にして働きぼろぼろに疲れ果てた人の方が、到底満腹でないにもかかはらず、なぜかより満ち足りてゐるといふこともある。

かといって、空腹のまま走る馬車馬の生活に、十全の満足を感じてゐるわけでは決してなく、もっと楽な生活を空想するのが常である。生涯遊んで暮らせるだけの金額が手に入った場合でも、同じやうに働き続けるものか、疑はしい。生存といふ最低限の課題をこなしてゐるのみであって、満足してゐるわけではない。

冒頭に述べた訓告に戻らう。怠惰を怖れるのは、怠惰に慣れて努力を忘れると、役に立たない人間が出来上がるやうな気がするからだ。価値のない個体になるやうに想像されるからだ。それは働かない働き蜂のやうなもので、巣には必要のない存在であり、排除されるべきお荷物である。つまり、社会内で生きてゆくことが難しくなるので、子をそんな苦境に落とすまいといふ心から、親は注意を与へたのである。

満足を戒めるのは、それが労働奉仕の妨げになるからであり、つまり共同体内で生存してゆけなくなるからであった。言ひ換へれば、満足すること自体が悪いとされてゐるわけではなく、満足の結果として生じるであらうものが警戒されてゐる。ならば、満腹で横になったとしても、それで(人として)立派に生きてゆかれるのであれば、それは素晴らしいことなのではないか。もしそのやうな方途がつくならば、それこそが最善の道であるやうに(その子には)見える。

そのとき、満腹で動けない牛、は罵言ではなく、むしろ最高の賛辞となる。



つづきます

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