あり方といふ問題(二)

 ~前回のあらすぢ~
 満足してゐるのと不満なままでゐるのとどちらがよいだらうか。
 所詮豚は豚なのだから、どちらでも大して変りはない。
 ならば飢ゑてゐるよりは満たされてゐる方がましといふものだらう。


さて、前回のつづきです。もっとも今部屋の気温が五度ですので、いつまで指がもつか心配、いやもう冷えてゐますが、窓の氷がぬるむのを横目に頑張ることに致しませう。


前回の結論に対しては、以下のやうな反論があるかも知れない。

「豚ならば、さういふ結論でもよいだらう。彼らにとって、最高の目標は食べることであり、その最高の欲求の充足こそが彼らにとっての最大幸福であらうから。しかし、我らは人間であるから、云はばパンだけで事足りるものではなく、もっと何かが必要なのだ。食欲といふのは、人の持つ欲求のほんの一部に過ぎない。その一部を満たしたとしても、それは小さな満足でしかなく、心の空洞は大きく開いたままだ。この空虚を埋める何か、何であれ食物以外のもの、を得ない限り、全体としての満足は得られず、したがって我々は不満なままであり、不幸に留まるのだ。」

豚と人の間に、以上で述べられたほど明確な差があるかは大いに疑問だが、それはさておくとして、たしかに、肉体的欲求の充足のみをもってたれりとする幸福論は、かなり極端であり、生活の実体にもそぐはないやうに思はれる。

実際、食べて満足した人は次に何をするだらう。名誉、富、コミュニケーションといった社会的欲求の解消へと向かふのではないか。言ひ換へれば、満腹してもまだ満足してゐないといふことだ。人の欲望には際限がないと言はれる。社会的要求を満たした後でも、きっとまた別の、精神的な何かが出て来て、人間を駆り立てるに相違ない。

ここで二つの方向が生まれる。ひとつは、豚ならぬ人間が人間として本性的に志向する何かが存在すると考へ、その充足こそが人間の真の幸福であるとする説。もうひとつは、人間に本質などなく、とめどない欲望の流れが続くばかりであるから、その認識に至り、達観することが至善といふ説。

どちらにしても、幸福論の勁さと深みにおいて、その文化の不幸の度合ひが測られるやうで、要するにわかるのは、肉体的にか精神的にか社会的にかはともかく、人間は満足してゐないといふ一点だ。

問題は何なのか。人は飢ゑてゐる。これは実際にさうなのかも知れない。しかし、解決への努力があるばかりで、思考を促すやうな問題とは言へない。では、何が問はれてゐるのか。

問題は、いまこの自分は、人であるやうに自己認識してゐる生き物は、満足してゐるのか、ゐないのか、といふあり方の周辺にあるやうな気がする。


つづきます


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