著作紹介 東都百景(2)


「何かまじめな意図があるようなのは感じ取れたけど、よく分からない」


というのが、『東都百景』という著述について、わたしが最初に頂いた感想です。

本を読んでくださいました方から説明を求められたこともあります。


わたしは自分の書いたものに関しては、何も説明をしないことにしています。

説明の文句を加えないと理解できないような文言を連ねたつもりはございませんし、

何より、わたしが何かを説明してしまうと、それが正しい読み方、

というふうに受け止められる気がして、躊躇してしまいます。

発言が、作者による公式見解のように取られるのが怖いのです。


著述者のことばを、単なる一個人の意見として、

ほんの参考程度に受け止めるような御方は稀でしょうし、

またそのような方であっても、作者の意見はやはり特別のものとして、

知らず知らずに重きを置いてしまうのが自然でしょう。


もっとも、作者という存在が、解釈上の正解を知っていて、

この箇所の正しい理解はこれこれである、と言明できるものであるとすれば、

わたしも自分の考えを披瀝(ひれき)するにやぶさかではありませんが、

筆者というものがそのような特権的な立場にいるとは、わたくしには思えません。


読者と作者の違い、作品の解釈というテーマにつきましては、

稿をあらためまして、いずれ論じる機会があるかと思います。


ともかく、かわいい子には旅をさせよと俚諺にございますとおり、

わたくしも自分が書いた作品のことはもう放っておきたいのです。

書いたものに関しては何も言いたくない、というのが真情です。


ではございますが、たとへば近くの者の反応を見ておりますと、

何の背景説明も、導入のひとこともないままに、いきなり本文を読んだとしても、

はたして何か意味ある仕方で享受され得るものだろうか、と考え込んでしまいます。

自分のことを個人的によく知っている者逹でさえ「よく分からない」のだから、

何も知らない他の読者は当然「何も分からない」のではないだろうか、

などと危惧してしまうのです。


おそらく、読むに際して、何ほどかの、要を得た事前説明は、

必要とまでは言えずとも、有意味なのかも知れません。


作品が独り歩きし始めるまでは、親が背中をおしてやる必要が、

たぶん、あるということなのでしょう。

それは作った者としての最低限の責務とすら言えることかもしれません。

いえ、なにも大げさなことではなく、人間の社会ではごくふつうのこと、すなわち、

独り立ちできるようになるまでは親が子の面倒をみてやる、ということです。

過保護に甘やかし過ぎてもいけませんが、

突き放して食事もまったく与えないようでは、いかな可能性の芽も出ず、

ついに花も開かないままに終わってしまうでしょう。

作品という種が、読者という鉢にまかれて、理解という芽を出し、

いつか、その方自身の、思いという花を咲かせるように、お祈りするのみです。


というわけでございますので、

わたくしもせいぜい適度にお世話をすることにいたしましょう。



冗文失礼を致しました。

お読み頂きまして、有難うございます。

ぜひまたあそびにいらっしゃって下さい。

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