著作紹介 東都百景(3)


昨日申しました通り、

私はこのブログで『東都百景』という作を紹介するつもりではございますが、

闡明(せんめい)するものではございません。

もしも、そのように見えることを私が愚かにも書きこんでしまい、

それが作品の意味を解説したものと受け止められるなら、

とても心苦しいことです。



作品というのは、これは作者の所有物ではございません。

今ここで取り上げておりますのは、法解釈上の話ではなく、

作り手の意識の観点より見た、作品と作者の間柄の問題です。



もっとも、作者が、自らの作ったものを、

自分の物である、とみなすことはできます。

それは完全に作者の側で自由にできることです。

その場合、最も事態を難しく、

あるいは簡単に、するのは、

当事者のうち、片方はしゃべることができないという点でしょう。

作者の方は思いを述べることができますが、

作品の方は声高に語る口を持っていません。

結果、作者の、自らの作品に対する認識は、

作品自体によっては否定されることがありません。

もちろん、肯定されることもないわけですが、

作者と作品の間にはなんらの異議も提起されることがなく、

作者の側の意見のみが存立するのを許されます。



反対の場合も同じこと、

作者が、作品を、自分の物ではないと思っていても、

それは作者の側の一方的な思い込みと称すべきものであって、

作者の個人的な体験や思想以外には、

何の裏付けも、何の承認も、

何の同意も得られはしません。

どこまでも自分一個の思いに過ぎないのであり、

作品の方がいったいどう考えているのか、

嬉しいのか、悲しいのか、それとも関心がないのか、

作者に知る術はありません。

いくらこちらが懸命に語りかけたとしても、作品は沈黙したままです。



ものをしゃべらない、

というのは別に作品だけの専売ではなく、

たとへば植木などもそうですが、

植木でしたら、こちらが毎日世話をして大切に育てていけば、

やがて成長し、花や実をつけてくれるものです。

一言も語ってはいませんが、

何らかの関係があって、

こちらが間違ったことをすれば、

弱るなり枯れるなりしますし、

よいことをすれば、その分旺盛になったりして、

反応をしてくれます。

要するに、言葉は介しなくとも、関係はきちんと成り立っています。

水をたくさんやる、

という思いを持ち主が持っていたとして、

毎日たくさん水をやり、

その結果植木が枯れてしまったら、

このときはじめて、

持ち主は自分の抱いていた思いがあやまちであったことに気づくのです。

気づくことができるのです。



作品の沈黙は、なにか、得体の知れない不気味なものです。

じっとよく見つめれば見つめるほど、

暗い闇の奥へと入っていき、

それでも目をこらして必死に見続けて、

何かかげが見えて、

はっとすれば、

それはおそらく自分自身のふたつの目の投影だったり、と。


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