白い霧

わたしは誰であったのか

街は白い霧に包まれて
木々の緑葉はしづくをたたへ
人は一人机の前に呆然として
うつろなまなこを窓外に投げる

もはやこの生でなすべきことはなく
他に叶へたい望みを抱くわけでもなく
なすことに興味の一切を失った人は
たんぼの稲穂を数へる以外の
何をして過ごしたらもっともらしいのだらう

わたしは誰であったのか

さう今やうつし世におもひはなく
おもひ出されるのは
かつてのわたしであり
かつてのひとであり
かつてのそれであり
わたしの元来たところであり
今はかうして帰れないでゐるが
心の隅にきっと情景が残ってゐるのではないかと
不思議に確信するそんな
ふるさとのこと

わたしは誰であったのか

阿呆になって
他人の目を欺くことはできても
自らの冷めた視線はそらされなかった
我が目をごまかすほどの演技力には
自分は恵まれなかったらしい
面白いとおもはれることは
すでにやりつくし
心残りはない
なのに生きてあるといふのは
断頭台に頭を突っ込んだまま
とうに覚悟はできてゐるのに
細い首を落とすはずの刃が
一向に落ちてこないで
図らずもずっと待たされてゐる
そんな罪人の気持ちに
よく似てゐる

なかなか落ちてこないものだから
体は縛り付けられて動かないものの
自由な頭の内側で
妄想ばかりが駆け巡る
その中で
ふとひらめいた考へを追ひかける
少しだけ興奮してゐるのは
そのおもひに何か真実らしいものが含まれてゐるやうな
そんな気をわたしに起こさせたから
もしかするとこの生も捨てたものではないのではないかと
いやなかったかと
絶望には何かあかるい部分が隠れてゐたのではないかと
そしてその光は
わたしの心の奥にあり
かつてわたしを戸惑はせ
結果としてこの生をあきらめさせた
あの場所から漏れ出た一条ではないかと
このおもひを辿って行けば
きっと近くまでは至り着くのではないかと
年甲斐もなくわたしは興奮したのだ

わたしは道を踏み違へたのだらうか
処刑台の上で気が付いたのは
あまりにも遅すぎたと言ふべきだらうか
もっと早くにさとってゐれば
よりよい生が送れたのではなかったか
さあそれはわたしには判断のつきかねる問題だ
さうかもしれないしさうでないかもしれない
ただ自分の進んできた道が
この身には唯一で
それ以外にはまったくありえないものであったと
死を待ちながらわたしは断言できる

わたしは帰りたいのだ
ただそれだけなのだ
そして大事なことは
わたしは帰れるかもしれないのだ

街は白い霧に包まれて
木々の緑葉はしづくをたたへ
若くみづみづしい

後悔はない
たとへ次の瞬間に運命の刃が振り下ろされたとしても
わたしは自分を哀れまないだらう
死んでも別の誰かがきっと
このおもひをかなへてくれると
さうわたしは知ってゐるから



コメント

このブログの人気の投稿

二月二十四日 ねえ・・・

五月二十四日 ぐらたん

六月二十日 のぞみ