忘れ難きひと

たとへば限りない悲しみを感じるのは
買ひ物袋をさげた帰り道
腰の曲がったおばあさんが
一歩また一歩前に進む
後ろ姿が目に入る時

わづかに足を緩めて
追ひ越してゆくわたしは
気にしてゐない振りをする

文字を拾ふより
歌に身を震はせるより
画布に嘆じるより
一人の老婆とすれ違ふ方が
時代的な経験だといふのは
特殊なことなのだらうか
どうなってゐるのだ
われらの信仰は

我々には限界がある
いやそれは限界なのだらうか
我々は見えるものしか見ることができない
そして私は限られた個体として
我々に見えるものすべてを目にはできない
私は限られた時を与へられ生きるに過ぎない
それにもっと大きな難題がある
実際には
見えるものを見ることすら難しい
ほとんどの場合
見てゐるのではなく見させられてゐるのであり
それがしかも悪意ある他者からの強制ではなく
自分自身の同意と協力を取り付けて行はれる
優しい慈善事業なのだから

さあ人の子よ
斯様な晴れ間のもとで
お前は絶望することができるか
見えるものを見ることすらままならない
ならば一足飛びに
さうかつてイカロスが試みたやうに
飛び越えて行けばよいのではないか
だが見えるものを超えるための翼は
我々の背には生えてゐない
ならばあとから作ればいい
かの失敗者の過ちから学んで
溶けない翼を生やさうではないか
ああ
この希望は誰のものだ

見えないものを見ることはできない
無謬のやうに見えるその命題を支へるのは
さういふ気がするといふ個人的事情に過ぎない
その当否はおいて
さう信じるのが正しい方法の内に含まれてゐるかどうか
これは考へることができるかもしれない
今は正解を得ることを目的とすべきではなく
正しく問ひ得てゐるかを吟味すべきなのだらう
そしてさうしようとおもふなら
くたびれた老婆の忘れがたき後ろ姿を
思ひ返してみるのがよろしからう
与へられたものを受け取る
ただそれだけのことも
かんたんといふわけではないのだから



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