読者への手紙(3)

(承前)

 我々の日常は言語との関わりによって多くを占められています。一人きりで生存を完結させているような方がもしどこかにおられるならともかく、自分以外の人間との関わりなしには、生きて行くことさえままならないのが、人という種族の常でありましょう。他人と会えば挨拶をし、言葉を交わしますし、パソコンを開いて言葉をつづり、読み、聞く、仕事机でも、食事の席でも、就寝するまで、いや夢の中でも、我々は言葉を使っているのです。離れ小島に暮らす人でさえ、朝目が覚めて、「今日はよい天気だ」と心中に思わないではいられないでしょう。柿の味について表現しようとすれば、「柿、おいしい。」「柿がおいしい。」「柿において酸味、渋み、甘味の調和がとれている。」「かき、いい。」などと、幾通りもの仕方が考えられ、その味に応じて最も適切な言葉を選ぶことになります。しかし、たとえば、ある特定の知的前提と処遇においてのみ体験されるような、恐怖の場合はどうでしょう。どういう言葉になるのでしょう。つまり、私は今「恐怖」と書きましたが、それはあまり正確とは言い難く、そもそも、それに応ずる言葉が見当たらない場合にはどうすればよいのでしょうか。

 言い得ざるなにものかの現前に際して発せられる言葉の羅列、これをここでは詩的言語と呼ぶことにします。詩的言語というのは、言葉をきれいに配列したものではなく、言葉を創造しようとするものです。既存の語法から発想しているのではありません。すでにある言葉につまったところから、出発しているのです。それは一種の認識です。認識しようとする努力なのです。その結果として、紙面はいわゆる日常使用されている言語のあり方と、かけ離れた惨状を呈することがあります。文法、単語、発音、意味、文字の綴り法に至るまで、日常のそれとは異なる記法になってしまうことがあります。

 この種の読み物に慣れていない読者はそこで、この文章は無意味だと判断し、読むのを放棄する、という反応になるのが普通です。しかしこれは最も分かりやすい場合で、つまり、日常言語との乖離が大きいほど、それが詩的なものであることが明瞭になりますので、ある意味では、とても易しいのです。

 最も厄介なのは、日常的な記法と見た目にほとんど変わりがない仕方で書かれた詩的言語を読む場合です。そのまま読む分には普通に意味も取れますし、理解もできるのですが、実は本当の所が裏側に隠される形で表現されている、というものです。このような文章は意味が理解できてしまうので、何らの困惑も起こることなく、したがって立ち止まり耳を傾けることもなく、理解したまま、つまり誤解したまま、進んでしまいがちです。ただ、実際上は、この両極端の中間に位置する詩的文章が多いと思います。まとめますと、読む際には、二つの困難があります。ひとつは、意味の不明に際して、ひとつは、意味の明瞭に際して。

 『東都百景』は、全体としては詩的言語で構成された書と言えるように思います。もちろん、すべての景が完全に詩的であるとは言えません。前半と後半でも様相は変わってきます。いづれにしましても、ここで私が具体的におすすめしたいのは、ゆっくり読むということです。ことばを一つ一つたどって行き、よく吟味して、時間をかけて眺める、という方法です。実に単純なことですが、これだけでも、普段、新聞や小説や学術論文、文学作品、報告書などで使われる日常言語にしか接する機会のない人にとってはなかなか珍しいことで、大変に骨の折れる所作だと思います。斜め読みをするのが適当な本というのもありますが、この本に関しては、速読しても時間の無駄に終わるはずです。私自身あまり致しませんが、ゆっくりと声に出して読む、朗詠もよいように思います。



(4)へつづきます

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