読者への手紙(2)


 本の内容ですが、これは少しだけ特殊なところのある文章かもしれません。書き上げた当初はそう思っていなかったのですが、周りの読者の反応を見るにつけ、思いを改めるようになりました。

 そこで、少しでも道しるべになればという願いから、「読者への手紙」というこの小文を草するにあたり、本全体を読み直してみたのです。片手で本を閉じた私は、自分がいかに愚かなことをしようとしていたか、はっきりと感じました。ええ、おそれを忘れた愚か者と呼ばざるを得ません。この書き物に対して何かを語る権利など自分にはないのです。

 しかし同時にあらためて悟りました。自分に似た関心や知的背景を持っている方でさえ、この本を投げ出さずに読解するのは難しいだろう。いはんや、爾餘(じよ)の方々をや。

 研究、仕事、家事に忙しく、普段あまりこの種のことがらに関心を持つ機会のない方々に対して、何も伝えずいきなりぶ厚い本だけ渡しても、当惑させるばかりでありましょう。その当惑が意味のある当惑ならよいかもしれませんが、ただ読む意欲を阻害するばかりであって、それは可能なら避けられるべきものではないでしょうか。

 高機能のドライヤーを説明書抜きで贈呈するようなもの。使い方を知らないまま使えば、その高機能性は、かえって害になることもあるかもしれません。

 書き上げた時点で著者の仕事は終わり、という書籍頒布の仕方が大勢でしょうが、この本に関しては、書物の受容について、ある程度、というのは個人としてできる限りという意味ですが、より正当な享受が行われ得るように努めるのが、著作者の責任であるように思っています。私は愚かなのでしょう。一度お読みになりましたら、どうかこの手紙は破り捨てて下さい。




 申し上げるまでもないことですが、本の解釈は、読者の裁量でございます。筆者の見解は、唯一絶対の正解ではありません。書いた者にそのような特権はありません。もし著作者が、作品の読み方に関して、正しい答えを示唆するような発言をするなら、彼は自分の分を越えた越権行為を犯していることになります。

 おそらく彼は、作品への関わりが一般読者より深い分、自分の方が作品をよく知っているのが当然であるし、なにより他ならぬ自分が作ったものなのだから、作品のことは他の誰よりも自分が一番に知っている、と思っているのでありましょう。しかし、自分が作ったから自分が一番よく知っているというのは、造り上げた際の苦労の大きさ及び自作品へのかたよった執着より生じる妄念であります。

 たとえば、ある箇所で、自分はこれこれを表現したくてこのように書いたのだ、と筆者が主張するとしましょう。「夕日があかい」という文句で、「かなしみ」を表現したかったのだ、と。一方で、ある読者は、同じ一節を、燃え上がる情熱を表現したものと受け止めたとしましょう。さて、どちらが正しい読みなのでしょうか。

 筆者も読者も、意味を読み取る解釈という行為をしている点では同じです。一つの文字列を前にして、解釈をするという行為に、違いはありません。筆者と読者と、眼前にあるテキストは同じですが、違うのは、その文字列以外の情報量でしょう。

 筆者にとって、実際に書かれた文章は、生の全体のごく一部が結晶化した現れに過ぎませんが、読者にとっては、表に現れた文字がすべてなのです。筆者は、文字だけではなく、その背後にあって明示されていないままの情報を含めて、解釈をしているのです。

 では、作品のより正確な解釈には、文章という名のインクの染みだけではなく、筆者の体験、人生といったものへの理解が、必須なのでしょうか。作品のみをいくら繰り返し丹念に読んだとしても、正しい解釈には至らない。作品の外の知識を得ることで、より正確な理解へと進むのだ。こう主張する人々の意見に我々も同意するべきでしょうか。

 そのような読解の方法が有用な種類の文章もあるように思います。実際には、ほとんどの通用している文章は、そういう範疇のものでしょう。たしかに、個人の日記を読み解く上では必要かもしれません。では、『東都百景』は日記なのでしょうか。個人的な覚え書きの類なのでしょうか。もしそうなら、私はこの小文の中でどんどん個人情報を晒して行く他ありません。私に関する情報が多いほど、読者が「正しく」解釈する可能性も高くなってゆくのですから。

 しかし、皆様、思うに、この本は、日記ではないのです。いえ、日記とか詩文とか小説とか、形式的な類型が問題なのではありません。ことばのあり方、が問題なのです。




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