読者への手紙(5)

これまでの、「読者への手紙」 (1)(4)

(承前)

 詩的言語についての説明の雲行きがあやしくなって参りましたので、ここらでやめておきましょう。私が読者の方に申し上げたいのは、この本で使われている言葉の多くは、何らかの体験内容について説明したり表現したりする記号として用いられているのではない、ということです。

 文章として美しくない箇所はたくさんあるのですが、それでもあえて申しますと、この書き物には、稚拙な表現などありません。その言い方は、何かを表すのにもっとよい手段、ことばの使い方があるという思考を含意していますから。何かなど、ない、のであります。すなわち、ことばがすべてであって、その背後に汚れていないままの何か不定のものがあるわけではありません。

 言語を体験としてとらえてもらいたいのです。言語自体がすでにひとつの認識であり、体験された現実なのです。ですから、言語から体験へと、言語から意味へと、言語から表現内容へと、遡る必要はありません。言語が表現する体験など存在しません。言語が体験なのです。よって、作者と読者はここにおいて、詩的言語において、同一の地平に立つことになります。テキストを読むという行為において、作者は読者になり、読者は作者となるのです。


 このような文章の解釈の基準、つまり正しさの規準ということですが、は、おのずから異なって来るようです。筆者の見解は、特権的な立場にはありません。むしろ読者のそれと完全に同等なのです。ここにおいて、正しさの規準は、原著作者の表現意図との一致、ではありません。すると、何の基準もないのでしょうか。つまり、何をどう解釈しても自由であり、読者はそれぞれ勝手に好きなように読めばそれでよいのでしょうか。
 いかにも、解釈は自由です。しかし、それが良い解釈であるかどうかは別の問題としなければなりません。とは言っても、ある読み方がよいかどうかを判断する論拠が不透明な現状のままでは、なにもかも善しとするのが理なのです。


 極端な事例ですが、私の本を読んだ、面白かった、と縄文人に声をかけられる場合を想像してみましょう。当時はまだ現在のような文字はなかったはずですから、彼は一体何を読んだのでしょう。私はふと思います、彼のしたことは読書と言えるだろうか。彼にとって、書き連ねられた文字列は、一定の模様でしかありません。黒い染みを語としては認識できませんから、意味はまったく理解できません。しかし彼は私の白い本を手ににこにこして立っています。私は思います。たしかに、彼は読んだのだ、彼も読書をしたのだ、ただ彼にとって、その体験は紙の上の黒い点を追いページを最後までめくる作業より以上のものではなかったはずだ。彼は何もわかっていないかもしれない。しかしわかることがどれほど重要だろうか。最後までページを開いたということは、彼はきっと楽しんだに違いない。文様の変化、紙の手触り、におい、ページをめくるとき紙と紙の擦れる音、そういったものが彼の読書体験なのだ。いや実際、一読して何となく理解されてしまうよりは、随分ましだと思われるのですが、それは置いておいて、この反対の極端を考えてみましょう。私の本を完璧に理解するという読書です。が、どうも想像がつきません。この本の場合、完璧に理解するというのは、完璧な仕方で体験する、ということですが、それがどういう風になされるのか、想像できません。

 おそらく、求められているのは、理解とか、体験とか、追体験とか、共感とか、そういったものではないのかもしれません。私としてもよく整理できておりませんので、とりあえず、どういった事柄に沿って書かれた本なのか、という大雑把な観念を持ってもらうために、少しだけ、別の角度から、説明を続けることにしましょう。




(6)へ続きます



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