読者への手紙(6)

これまでの、「読者への手紙」 (1)(5)

(承前)

 創造は破壊であります。というのは、語呂がよいのでつい言ってみたくなるのですが、いささか不正確な物言いかもしれません。創造には必ず破壊が伴う、と言った方が親切でしょう。これは別に文筆に限るものではありませんから、あえて説明せずともだいたいの方に得心して頂くことができましょう。破壊というのは家の取り壊しのような大げさなものではありません。もっと静かであまり音のしないものです。壊すのは目的ではありません。ただそれは通らなければならない道筋なのです。つらつら思いますに、そしてこれは単なるこの場限りの思いつきではなく、私の過去生の中でしつこくも繰り返し現れてきたことなのですが、創造でないものに価値はないのです。一切ありません。創造によく似たものや創造に近いもの、創造であることを主張はするが実は違うもの、あるいは創造に見せかけた偽物など、世はまがいもので溢れています。いや、私は付け加えるべきでしょう。私にとっては、無価値なのです。何らの意義も看取しえないものなどそうそうあるものではないのですから。私にとっては、と言うより、私の仕事にとっては、と付け加えるべきかもしれません。ただ、どんなに美しく、また立派に仕遂げられた労作も、それが文学であれ演奏であれ論文であれ、本当に、無意義なのです。自分でも驚くくらいそうなのです。鳴り止まぬ拍手喝采の中、アンコールを待たずに、独り席を立って厚いドアを開け、足早に、それこそ何か用事でもあるかのように、心に言いようのないさびしみのみを抱いて、そそと立ち去ることが、いったい何度あったか数え切れません。そんなとき、帰りの電車に揺られながら、ならば、と疑問をおもふのです、わたしの心は、どんなものがあれば満たされるのだろう、と。


 私たちはこれまで様々な言葉を連ねて来ました。しかし私には、触れられていない事柄があるように思えました。それこそが肝心なことであるのに、それに直接取り組んだ文章は管見の及ぶ範囲にはありませんでした。この状況はもちろんその事柄自体に原因があるのです。私は、今やそのときなのだと思いました。今はそのようなときなのだと解釈しました。個人の企図として筆をとったのではありません。書こうとしたとしても、時が来ていなければ書けるはずはないのです。言葉の氾濫してあふれる世にあって、その勢いをいたづらに増して世人をより辟易させてやろうと書いたわけではありません。
それが何か、人はそれを前にして何かとは問わないでありましょうが、読者は個々の景色を巡り、全篇を読むことであるいは感じるでありましょう。

 ここには解答はありません。問いすらもありません。ただそれを前に後ろに斜めにした景色がかわるがわるに展開するのみです。解釈はまた別の企てに譲らねばなりません。

 全体の基調は暗いのですが、暗いだけではありません。明るい夏の陽光はないかもしれませんが、たしかにどこか明るい部分があります。執筆当時は、悲歌ではなき賛歌でなければならないと考えておりました。ただ、今読み返すとほとんどあからさまな明るさは見えませんね。

 苦しみについての記述なのではなく、苦しむ患者のもらすうめき声なのです。苦しみとは何かという問いなのではなく、苦しいという叫びそのものであり、苦しみに苦しむ中にあって、いったい自分のどこがこの痛みを引き起こしているのか、傷付いた獣の本能的に探ろうとするようなもの。この本は、無視できないなにかにさいなまれてもがく人間の綴るメモのようなものかもしれません。

 苦しみばかりですが、私という個体がたまたま陥った境遇に起因する苦しみ、性格や生活や考え方といったものによるものではありません。これがどういう苦しみなのかと考えれば、その苦しみにより人間がはじめて人間となるような、そんな苦しみ、などと言えもしましょうか。




(7)へつづきます





コメント

このブログの人気の投稿

二月二十四日 ねえ・・・

五月二十四日 ぐらたん

六月二十日 のぞみ