読者への手紙(6)
(承前)
私たちはこれまで様々な言葉を連ねて来ました。しかし私には、触れられていない事柄があるように思えました。それこそが肝心なことであるのに、それに直接取り組んだ文章は管見の及ぶ範囲にはありませんでした。この状況はもちろんその事柄自体に原因があるのです。私は、今やそのときなのだと思いました。今はそのようなときなのだと解釈しました。個人の企図として筆をとったのではありません。書こうとしたとしても、時が来ていなければ書けるはずはないのです。言葉の氾濫してあふれる世にあって、その勢いをいたづらに増して世人をより辟易させてやろうと書いたわけではありません。
それが何か、人はそれを前にして何かとは問わないでありましょうが、読者は個々の景色を巡り、全篇を読むことであるいは感じるでありましょう。
ここには解答はありません。問いすらもありません。ただそれを前に後ろに斜めにした景色がかわるがわるに展開するのみです。解釈はまた別の企てに譲らねばなりません。
全体の基調は暗いのですが、暗いだけではありません。明るい夏の陽光はないかもしれませんが、たしかにどこか明るい部分があります。執筆当時は、悲歌ではなき賛歌でなければならないと考えておりました。ただ、今読み返すとほとんどあからさまな明るさは見えませんね。
苦しみについての記述なのではなく、苦しむ患者のもらすうめき声なのです。苦しみとは何かという問いなのではなく、苦しいという叫びそのものであり、苦しみに苦しむ中にあって、いったい自分のどこがこの痛みを引き起こしているのか、傷付いた獣の本能的に探ろうとするようなもの。この本は、無視できないなにかにさいなまれてもがく人間の綴るメモのようなものかもしれません。
苦しみばかりですが、私という個体がたまたま陥った境遇に起因する苦しみ、性格や生活や考え方といったものによるものではありません。これがどういう苦しみなのかと考えれば、その苦しみにより人間がはじめて人間となるような、そんな苦しみ、などと言えもしましょうか。
(7)へつづきます
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